『僕の彼女はサイボーグ』

まあ、そこそこの映画っつー感じです。
綾瀬はるかがサイボーグ(ロボットといったほうが正確らしい)の役で、なおかつ相手役が同性から見ても好感の持てる男子、小出恵介ということで、キャスティングに関してはかなりツボでした。

とりあえず綾瀬はるか目当てで観てもいいです。
綾瀬はるかを可愛いと思わない人もいるようですが、確かに角度や表情などによっては可愛くないこともあるようですが、むしろそこがいいのではないかと思います。これは綾瀬はるかに限ったことではなく、タレントとして、あるいは女性として、人間として、あまり整いすぎた完璧な顔だとかえって魅力が無くなるのではないかと思うからです。つまらない顔になってしまうというか、完璧なとこからのちょっとのズレとかゆらぎを人は魅力と感じるのかもしれませんね。

◯った“彼女”がチャーミングなので、あれをもう少し映画の中で登場させて欲しかった。あれによりトラブルが発生するとか、逆にそれにより運良くトラブルを回避するとかいうエピソードがあってもよかったかも。
(漫画『NARUTO』のロック・リーの酔拳ももう一度見たい)

あと、“彼女”にはもっと暴れて欲しかった、せっかくアラレちゃん並みなんだから、もっとはちゃめちゃなアクションを盛り込んでもよかったと思う。

ジロー(小出くん)や“彼女”に感情移入できれば泣けなくもないはず。
だがしかし、人間とロボットの恋に感情移入などしていいものなのかという疑問が頭をよぎります。
それと同時に「じゃあ、感情を持つロボットができたとして、それと人間の差は何だ」ということになります。

究極的なことを言えば、例えばこの文章を読んでいるあなたの家族や恋人が「実は人間ではなくロボットである」ということの可能性は別にゼロではないわけです。頭をカチ割ってみれば確認できるかもしれませんが、あなたはそれをしないだろうし、仮にそうしてみて人間っぽい脳ミソが出てきたとしても、それが未来の超技術により開発された疑似脳ミソであるという可能性が残ってしまうのです。

もうちょっと言うと、あなたが感じている他人(他ロボット)の《人格》というものは、あなたの精神の中に構成されるものであって、客体自体に存在してはいないんですよね。
対象が有機物でてきていようが無機物でできていようが、そこは本質的ではなくて、その対象が発する情報(言葉、ルックス、表情)があなたの心に蓄積されてカタマリになって、そのカタマリがあなたにとっての他者。このようにして構成された《人格》においては人間とロボット、あるいはバーチャルな存在(んー、たとえばネット上だけでの知り合いとか、出会い系のサクラとか)といった物質的な側面での差はほとんどない。
そう考えると、ロボットへの恋ってのもありえるのかと思うんだけど、恋愛が生殖と関連していることを考えると、やはりその対象が自分と同じ生命体かどうか、繁殖が可能かってのはかなり重要と言うか、むしろそこが一番の出発点のような気もする。

えーと、だから…(僕は何を言いたいんだろうね)、…現時点でもアニメのキャラとかに恋をしちゃってる人はいるんだろうけれど、それって本当に人間に対するのと同じような感情なのかね?やっぱりどこかしら違うんじゃないだろうか。

たとえばAIBOが大好きって言っても、それって愛情というよりも、たとえばプラモデルとかを愛でるのと同じような感覚なんじゃないか、いや、そもそも生物のペットを愛すること自体が実はプラモデルを愛でるのと同じような感覚なんじゃないか。

えーと、だから…
僕は何を言いたいんだろうね…

映画の話でしたね。
別に観て損はしない映画です。
『猟奇的な彼女』の方が良いですけど。

MISIAの歌は当然のごとく良いです。

『ナルニア国物語 第2章 カスピアン王子の角笛』

良作。おもしろいです。
ちなみに第1章は観てません。原作も読んでません
第1章も観た人に聞くと、今作の方が面白いようです。

子供向けだからなのか、倫理規定なのか、制作者の哲学なのかはわかりませんが、まったく流血しないところが素敵です。
普通だったら残酷に描かれるようなシーンも上品に抑えてあって好感が持てます。
スーザンが弓を射る姿も様になってて美しい。
「一の王」のそのへんのニーチャンみたいな顔もなんかいい感じ(僕の中ではゆずの北川悠仁さんとオーバーラップしてしまいます)。
ネズミは強いし。

ファンタジー作品ということで、もっと登場人物たちが手から火を出したり、波動拳みたいなの出したりするのかと思ってたのですが、そういうのは無しでしたね。で、そこがまたいいです(原作がそうなってるだけなんだろうけど)。

隠れテーマがエコロジーらしいのですが、人間達による環境破壊の様子が具体的に描かれるわけでもないので、そんなことは感じませんでした。エコロジーがテーマってのは最近の風潮にあわせてむりやりこじつけたんじゃないのかな。
例えば「もののけ姫」では、製鉄による森林の開拓と、エボシ御前がそれをする理由、思想などがちゃんと描かれていますが、ナルニアではいつのまにか人間がナルニアを支配したずいぶん後の世界が舞台で、そこに至った細かい動機、理由の説明は無しで、とにかくそういう世界の話ですよということだけ。

テーマや教訓めいたこと、暗示などはまったく感じず、ただ展開を観て楽しむ映画だと思います。むしろ、そういうことは考えずに観た方がいいです。
で、まぁ、その展開が面白いんですよ。

なぜ、アスランが◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯だったのかとか、◯◯◯◯のあと、そんなに簡単に◯◯◯◯◯◯するものなのかとか、ひっかかるところはありますが(上映時間とかあるしね、説明過多だとヤボだし)、深く考えずに観た方がいいかも。
クライマックスのシーンでナルニア軍を◯◯◯◯るのが、◯ってところも素敵。

今回はやや頼りないカスピアン王子(ベン・バーンズ様)ですが、次回作にも出演決定ということで、ナルニアの王として成長した姿が見られるでしょう。

あと特筆すべきは、ドワーフ(トランプキン、お小さい方)役の人(ピーター・ディンクレイジ)がところどころで見せる戸惑いの表情。表情作りがうまいのか、もともとそういう顔なのかはわかりませんが、とにかく絶品です。たまりません。

MacBookのフチの角が痛い話の後日談

このブログで以前、MacBookを使っていると角張っているフチの部分に手首があたって痛いという記事(グチ)を書きましたが、その後日談。

結論から言うと、「慣れました」。
やっぱり人間ってのはどんなもんにも慣れてしまうようで、このクソボケがっ!と思っていたカドっこの痛みもいつの間にやら、なんにも感じなくなっていました。
やはり腕の皮が厚くなったということでしょうか。
それとも神経系がマヒしたのでしょうか。
あるいは、ミクロのレベルで腕との摩擦によりカドが削れたのかもしれません。

というわけで現在カドの痛みでお悩みの皆さんも長い目でみてMacBookとつきあって頂きたいと、こう思うわけでございます。

ちなみに実験してみましたところ、適当な物体でカドっこをクイッ、クイッてやると多少カドをつぶすことができますので気になる方はお試しあれ。
斜め上からカドを下に向かせるようにするのがポイントです。
MacBookの角を定規でつぶしてみようという写真

時をかける少女



(オタク向けをのぞく)アニメーションは全般的に好きだ。ついでにクレイアニメや人形劇(クインテットみたいな)も好きだ。ただしディズニーなどのCGアニメは気持ち悪くて嫌い。

「時をかける少女」(細田守監督)のDVDを買った。
まず、声優がどれも自然でよい。
ジブリ作品もそうだが、最近のアニメーションの声優には俳優やアナウンサーが抜擢される事が多い。その理由として、たんなる話題作りという意味があろうが、それと同時にプロの声優だとかえって「うますぎ」てダメという理由もあるのかもしれないと思った。「千と千尋の神隠し」の夏木マリのように(声優じゃないけど)「うますぎて素晴らしい」というのもあるが。
アニメの楽しみの大部分は声優の楽しみであると思う。それは音楽の楽しみ方に近い。「あのメロディーの演奏の仕方がすばらしい」というように「あのセリフの言い方がすばらしい」というような。
そして、主人公3人の関係性が美しい。いやぁ、もう、まぶしいぐらいで。
その他、同級生の高瀬(ちょっと変なコ)や、ヤクザっぽい担任の先生、かわいい妹、ボランティア部など、リアルで魅力的な脇役たちもまた素晴らしいです。特に担任。僕が中学の時にも一人、あれに近い先生がいました。
そしてそれらのキャラが生き生きと動く。仕草などもリアルだ。高瀬が消火器を投げる動作なども、たしかに高瀬くんのようなキャラならああいう投げ方になりそうだ、と説得力がある。
真琴の口の表情などにも注目。

エンドロールをみると、ちゃんと「フォントデザイン」という人がいる。多分、タイムリープ時の赤い数字や腕に刻印されたタイムリープの残り回数表示の数字。あの数字のデザインということだろう(多分ね)。未来っぽく、なかなか印象的だ。一つの作品にはほんとにいろんな人が関わっているんだなぁと思う。

こういう良質な手描きアニメ作品を見ると、最近のディズニーなどのテカテカCGがひどく味気なく見える。
生理的に受け付けない感じだ。シュレックなんかキャラクターデザインからして気持ち悪い(いかにもアメリカのセンスだ)。
カップヌードルのCMのアニメはCGと手描きの間の子のような感じになっているが、非常に中途半端だ。あれだったらいっそ完全に手描きにした方が良い。
とはいえ手描き作品のなかでも、手描きでは表現しにくい、あるいはめんどくさい部分はCGに置き換えられるのが常識のようで、真琴の家の台所のジャラジャラのすだれもCGのようであった、僕はそんなところさえちょっと気になる。あとお父さんが朝読んでいる新聞の紙面もなんとなくCG処理っぽくみえた。わからないけれど。

*時をかける少女とゴルトベルク変奏曲
この作品にはJ.S.バッハ作曲の『ゴルトベルク変奏曲』というクラシックの曲がBGMとして使われている。
一つの主題(アリア)を基にして、30種類もの変奏が次々と演奏される曲だ。そして最後にはアリアが再び演奏される。計32曲。バッハの曲の中でも傑作と評価されている作品のようです。
最初のタイムリープ(というかチャージ)の前に体育館や図書館、音楽室の映像をバックに静かに流れているのが変奏の基となるアリア。高校生が弾いているという設定のためか、ちょっとつたない感じの演奏にしてあると思う(違かったら演奏している人ゴメンナサイ)。
そして、転んでチャージした瞬間から流れる軽快な音楽が第1変奏。
その後、ボランティア部のカホちゃんのために何度もタイムリープするシーンでも使われている。真琴が「なんとかする」と言ったところから流れる第1変奏をはじめ、タイムリープのたびに、第4変奏、第12変奏と映像とみごとにマッチしたかたちで使われている。
これ、なんでゴルトベルク変奏曲なのかなぁ、って考えたら、まさにタイムリープで何度も人生をやり直すという行為の象徴なんですね。まず基本となる人生のストーリー(アリア)があって、その人生に対して、もしもあの時◯◯だったらどうなるかというバリエーション(変奏曲は英語でvariation)がある。考えてみればそのままなんですけど、よく選ばれたというか、最初聞いたときは「なんで、ゴルトベルク?」と思ったんですが、今ではこれ以外の選択肢はありえないようにしっくりきている。
このゴルトベルク変奏曲はバッハが、夜なかなか寝付けないでいる(不眠症?)ゴルトベルクさんという人の気晴らしのためにと作曲。そういうバックボーンがあるので、今までこの曲を聴くときは、「古ーい時代、宮廷、夜」の映像が浮かんできていたのですが、時かけのおかげで、その映像プラス「現代、高校、夏」の映像も思い浮かぶようになってしまった。蒸し暑くてちょっとけだるい感じのする夏の日。夏休み前で生徒たちも落ち着かない感じの。
それと同時に「変奏」というスタイルも、僕の中ではパラレルワールド的な意味合いを象徴するようにもなった。
語義矛盾かもしれないけど、「人生は一度だけの変奏」みたいな。
曲とそれで思い浮かべるイメージって大事で、好きな曲がくだらないCMとかに使われていると腹立ちますけど、好きな映画で使われていたからよかった。これがもしすげー嫌いな映画だったらやだな。時かけでよかった。
もちろん奥華子の曲もいいぞ。

□おまけ
*7月13日(ナイスの日)は何曜日だ?
プリンを食べるために7月12日にタイムリープした時にはテレビで「7月12日火曜日」と言っていたので、つまり13日は水曜日ということになるのだが、教室の黒板には13日(木)と書いていあるし、他のシーンで映る黒板には20日が木曜日となっているので13日も木曜日になる。さらに、進路指導の21日が金曜日なので、つまるところ、テレビの「7月12日火曜日」が間違いということで落ち着く。テレビ局が間違ったということにしよう。

*千昭の左手のリストバンド(※千秋じゃなくて千昭です)
土手で真琴と自転車で二人乗り。千昭が真琴に告白をするという重要なシーンだが、その直前、千昭がモジモジしながら首を触るシーンでは、いつもつけている(タイムリープの回数表示を隠すための)リストバンドが描かれていない。
その瞬間だけ外してたってことにしましょう。

運命論

高校の時の話。
体育でテニスの授業があった。その授業中にFくんが打ったポールが、Kちゃんという女の子の目に当たってケガをしまうという事故が起きた。
ボールが誰かに当たるという事はいくらでもある事件なのだが、そのキャスティング、つまりFくんとKちゃんという取り合わせが僕はすごく気になった。
気になったというのは、つまり、Fくんはいかにも女子にボールを当ててしまいそうな奴だし、Kちゃんはいかにもボールにぶつかってしまいそうな人だったからだ。妙にキャラクターにぴったりハマっている。もし、僕が小説家で自分のクラスが舞台の小説を書いていて、「テニスボールが誰かにぶつかる」という出来事を書かなければならないとしたら、やはりその配役はFくんとKちゃんだと思う。
これは不思議だ。

それとは別の話だが、僕の身近にPさんという人がいる。この人もまた、子供の頃いじめに会っていたとか、警察に別件逮捕されたとか、銭湯で泡を飛ばしながらシャンプーしてたら隣に座っていたのがヤクザ屋さんだったとか…(もっと例をあげたいけど思い出せない。でも、そんなイベントがいっぱい)。僕からしたら「なんでそんな低確率の出来事が頻繁に起きるんだろうか」というような出来事ばかり。
不思議だ。

偶然ではなくて、その人、キャラクターが出来事を招き寄せているかのような印象を受ける。運命というか。

次に掲載するのは、春日武彦著『不幸になりたがる人たち』(文春新書)の一節である。
(P.51〜。一部省略、編集。)

わたしが中学生の頃、何となくコアラみたいな顔をしたKという小太りの同級生がいた。───このKが、よくケガをしていた。それも運動神経の鈍さや、注意の至らなさや、判断力の甘さばかりに帰せられるとは限らない形での、つまり不運なケガなのである。校門の前でマツダ・キャロルという軽自動車とぶつかり、幸い外傷はなかったけれどもちょっとした騒ぎとなった事故が起きたときも、───Kは純然たる被害者で、キャロルを運転していた主婦の運転ミスだったのであった。───理由もなしに町のチンピラに殴られたのもKだったし、同じものを食べて彼ただ一人が食中毒にかかった。どうやらKには、ケガとか事故を呼び寄せる何かがありそうだと、これは誰も口にはしないが同じように思っていた。クラスで灯台を見学に行ったときには、コンクリートの突堤で彼だけが足を踏み外して太腿を深く切り裂き、結構派手に出血したためツアーから脱落して病院へ運ばれていった。

どうだろうか。
例えばカヒミ・カリィの人生に上記のような事は起こらないだろう。
Kだからこそだ。車にぶつかる、ケガ、食中毒…これらはある程度、その人の生活習慣や能力が影響するが、基本的にはランダムに生起するはずなのだが、異常なほどの高確率でKくんの人生に集中して生起してしまっている。Kくんは他にも家が火事になったりしている。

ふと、思い出したが画家の上村松園の人生にも火事が多かったという。
カミナリに何度も打たれた人というのもいるらしい。

人生においてどのような出来事が起きるか。それはランダムや偶然ではない。
キャラクターが出来事を招き寄せる。
そうさせている不思議な何かがあるような気がする。


*なかなか面白い本だ。この人の他の著書も読みたくなる。「顔面考」とか。