オヤジギャグの発生

オヤジギャグ。
オヤジが言う、あるいは言いそうなギャグのこと。通常あまり面白くないものとされる。

なぜ、オヤジギャグはつまらないのか。
そしてなぜ「オヤジが」言うのか、あるいは「オヤジになると」言うのか。
オヤジギャグがつまらないと思っている青年もオヤジになるとオヤジギャグを言うようになってしまうのか。
それとも、オヤジギャグという言葉が使われいる今の時代(90年代ぐらい?〜現在)においてのオヤジ、つまり、1940〜1960年ぐらいに生まれた男性がそういうギャグを好きなだけで、過去と未来におけるオヤジはそういうギャグを言わないのであろうか?また、諸外国にもオヤジギャグの概念はあるのだろうか?

この問いに対して私のような能力のない人間が、完璧に答えることはできないが、オヤジギャグの発生要因解明の糸口になるような研究があったので紹介する。
またもや『子どものユーモア』からである。
191ページの最後の段落にその記述があるが、そのまま引用してもわかりづらいので、解説をする。
それは加齢によって面白さの感覚がどう変化するのかという研究である。
まず、保存性のジョークと呼ばれる、以下のジョークがある。

ジョーンズ氏は、レストランに入って、夕食のピザをまるごと注文した。ウェイターが、六つに切りましょうか、八つに切りましょうかとたずねたとき、ジョーンズ氏は、「六つにしていただけるとありがたい!八つはとても食べられない!」と言った。

ちょっと面白い。
このジョークを理解出来るのはおおよそ一、二年生(六、七歳)ぐらいからのようだ、そして五年生ぐらいになるとあまり面白いと感じなくなる。
このジョークの面白さに気づくためには物事の「保存性」について理解していることが前提となる。
保存性というのは発達心理学界の巨人ジャン・ピアジェの用語で、ピザを六つに切っても八つに切っても同じピザであれば、その量は変わらないということである。大人のあなたが読むと「当たりめーじゃねーか」と思うかもしれないが、小さな子どもはこれが理解出来ない。
小さな子どもは六つが八つになっているとか、あるいは同じ量の液体でも、低いコップに入れたのと、高いコップに入れたのとでは、水面が高いというだけで量が増えたと考えてしまう(たとえ目の前で移し替えたとしても)。見せかけの量に判断が左右されるのである。小さなお子さんがいる方は試してみるとよいと思う。
この保存性を理解出来るようになるのがだいたい六歳以降というわけだ。ゆえに、さきほどのジョークは保存性を理解していない子どもにとっては、なにがおかしいのかさっぱりわからない。
そして、人はその人の認知能力にとって適度に複雑な、適度に頭を使うようなジョークを面白いと感じる傾向がある。これを『子どものユーモア』の中では「認知的適合」と呼んでいる。重要な概念である。
五年生の認知能力にとって、保存性のジョークは単純すぎてあまり笑えないというわけだ。

そして、ここからが興味深いのだが、人間は加齢とともに発達した認知能力が衰えていってしまう。ということは老年期になり、一、二年生と同じ程度(!?)に認知能力が衰えた場合は、再び保存性のジョークを面白いと感じる時期が来るのではないか。
ということを実験した結果、そのようなことが実際に見いだされたとのこと(子どものユーモア/p.191)。
言葉の説明だけだとわかりにくいかもしれないので図にしてみた。
オヤジギャグ発生図
「認知能力は発達し、後に衰える」という前提と「認知的適合」の二つの概念があれば、とりあえずオヤジギャグの発生を説明できそうである。
とりあえず、ここまでが一つの結論である。

しかし、ひとつ気になるのは果たして本当に中高年、老人の認知能力は六、七歳程度まで衰えてしまうのであろうかということである。
身の回りの大人、老人達を見てみると、確かに単純なギャグで笑ってはいるものの、認知能力までもが六、七歳程度とは到底考えられない。若者よりもずっとしっかりした老人もいる。だが、そういう人が単純なダジャレのようなネタで笑っていたりする。このギャップをどう考えるか。
そこで考えられるのが、通常の認知能力とは別に「お笑い認知能力」というものがあるのではないかということだ。
たとえば、認知発達が高い段階にあるからと言って、必ずしも道徳性、創造性も同じように高いとは限らない。これは経験に照らして考えてみても、別に不思議なことではないだろう。統合心理学のK・ウィルバーはこうしたさまざまな能力を「発達のライン」と呼び、それらは「相対的に独立(疑似─独立性を持つ)」していると言う(『統合心理学への道』(春秋社)による)。
となると、「お笑い」を理解する能力というものも、認知発達とはある程度独立して発達すると考えるのが自然である。
独立してはいるが認知発達が前提となっているし、その影響を受ける。ゆえに、通常、認知発達とともに成長するが、ズレも生じる、と。

ちょっと今回は硬い文章になってしまいましたね。
では、また。

笑いの性差

前回の記事で紹介した『子どものユーモア』で、笑い方の性差に関して興味深い記述があったので紹介する。

著者自身ではなくハワード・レーベンサールという人の研究によると、女性というのは男性よりも社会的な要因によって笑いの量が影響を受けるらしい。
社会的な要因というのはつまり、「まわりが笑っている」と、より多く笑うということだ。しかも、その笑いがたとえ周囲の状況によって増加させられたものだとしても、それが「おもしろさの評価」にも影響を与えるというのだ。

「…男子と女子の両方で、録音された笑い声が加えられた場合には、ドタバタ・フィルムに対する笑いが増大している。しかし、あとでフィルムのおもしろさの評定を求められたときには、女の子だけが録音された笑いが入っているもののほうを、それが入っていないものよりもおもしろいと判断した。…したがって…そのフィルムに対する知的な評価と、(人為的に高められた)愉悦反応の表出は、女の子より男の子のほうが、相対的に独立的であった。」(子どものユーモア/p.252)

テレビでよく「あらかじめ録音しておいた笑い声を足す」ことがあるけど、女性はあれによって笑いの量が増し(もちろん男性も影響を受けるがそれ以上に)、なおかつそれが面白さの評価にもつながってしまうというのだ。

僕が問題にしたいのは笑いが増すことよりも、それが「面白さの評価」にもつながってしまうという点だ。本来たいして面白くない芸人が、「つけたし笑い」によって、実力以上の評価を得ることになってしまう(今あなたは「エンタの神様」のことを思い浮かべたかもしれない)。

『子どものユーモア』のなかでは、この性差の記述とは別に、二種類のパーソナリティ特性によって笑いのパターンが違うということが書かれている。
これまた著者自身ではなくデヴィド・ブロジンスキーという人の研究によるのだが、それによると、まずパーソナリティを「衝動型」と「熟慮型」という二つのタイプに分けて考える。

「衝動型の子どもは、より総合的なやり方で刺激を検索し、熟慮型の子どもよりも当面の課題に関する情報を無視する率がより高い。さらに衝動型の子どもは、熟慮型の子どもよりも、あまりうまくいきそうもない問題─解決のストラテジーを採用しがちである。一方、慎重で体系的で緻密なアプローチで問題に対処する結果、熟慮型の子どもは、衝動型の子どもがしばしば逃してしまうような、刺激の微細な差異を見つけ出しやすく、そのことがつぎには、おそらくより正確な作業成績と結びつくであろう。」(同/p.212)

そして、この二者について、

「漫画やジョークが提示された場合、それがなぜおもしろいかの説明を求められたときには、実際には熟慮型の子どものほうが優れた理解を示すのであるが、それでも衝動型の子どものほうが、熟慮型の子どもよりも多く笑ったり微笑んだりする。」(同/p.212)

「ジョークのあとに聴衆の笑いが続くときには、どちらの子どもも相対的に多く笑ったが、笑いの増加率は熟慮型の子どもよりも衝動型の子どもで、より大きかった。」(p.213)

とある。

そうなると、女子には衝動型が多く、男子には熟慮型が多いということになりそうだが、この本には両理論のつながりについてなにも書かれていない。章も別である。
笑いの性差を”性”の差として論じるとなにかと問題があるので(ジェンダーなど)、衝動型─熟慮型のパーソナリティ論に置き換えたいのだが…。
ちなみに衝動型(女子)が知的な評価によって笑わないからといって、笑いを理解できないというわけではないらしく、ジョークの理解について「よく考えるように」という指示があると熟慮型(男子)と同じ程度の理解力を示すそうだ。

お笑い文献案内/『子どものユーモア』ポール・E・マッギー

子どものユーモア


子どものユーモア
ポール・E・マッギー
翻訳:島津一夫、石川直弘
1999 誠信書房
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まず、グチを言いたい。翻訳が悪い。
いや、原文が悪いのかもしれないが、それも翻訳の段階である程度矯正できるはずなので、やはり読みづらさの責任は翻訳家にある。悪い意味で「読みごたえがある」。

この本の内容を一言でまとめるのは難しいです。というのもユーモア論の概観、子どものユーモアの発達(年齢差)、霊長類にユーモアが見られるか、認知要因、ユーモリストの児童期の特徴、ユーモアの性差、ユーモアと精神の健康…と、各章ごとに様々なテーマを扱っているからです。
また、本書の中で著者自身の主張の占める割合は少なく、ほとんどが先行研究の紹介にあてられています。

著者はユーモアの原理として「不適合性」を挙げています。しかしこれは”先行必要条件”であって、十分条件ではないとしています。それは確かにそうでしょう。不適合性は好奇心や恐怖を引き起こすこともあるからです。それらとユーモアを区別する条件の一つとして、「遊び心の状態」あるいは「遊戯信号」を挙げています。なるほど。
また、よく言われるように緊張(生理学的覚醒)が解消することが、笑いにつながると言っています。そしてその際の生理学的覚醒は”中程度”であるほうがより面白く感じられるとのことです。少なすぎても、大きすぎてもダメです。
不適合性の”複雑さ”についても、単純すぎても複雑すぎてもダメで、当人の認知レベルにとってほどよく頭を使う程度の複雑性がもっとも面白く感じるであろうと言っています。
笑いの原理的な部分に関する記述ははだいたいこの程度です。
というか、本書では広範で多様なテーマにたいし、ひとつひとつをガッツリ順序立てて論じるわけではなく、先行研究をちょこちょこっと引用しつつ、まとまりもなく言及しているという感じで、とりとめのない一冊にしあがっています。
しかし、認知発達とユーモアの関係や、チンパンジーのユーモア、ユーモアの性差など、なかなか興味深いことも書かれております(でも、これも結局誰かの研究を紹介しているだけ)。

滑稽は滑稽なのだろうか?/『オカシサの計量心理学的研究』から考える

風刺画


前回の記事にも載せましたが、『オカシサの計量心理学的研究』という本に上記の画像を使っての風刺画の面白さに関する研究がありました。
1が長門ひろゆき、2が中曽根、3がレーガン、4が松尾雄次(ラグビー選手)です。
その調査で「滑稽」とされたのは2の中曽根と、3のレーガンで、1と4は「滑稽でない」とされたとのことです。
しかし、僕としては1が一番面白いと思うのです。次いで4、3、2の順です。
なので、中曽根が1位というのを読んだ時には「えー」と思ったのですが、確かに、「滑稽」という言葉の捉え方を変えれば、その順位もわからなくはありません。
つまり「滑稽」という言葉が、通常「ユーモラス」であるとか「ほほましい」として表現されるような感覚を表す言葉であればということです。
そうなれば、1番の長門ひろゆきの発するある種の不気味さは「滑稽」とは反対のものになるでしょう。
しかし、「滑稽」を「おもしろい」と同義にとれば、やはり長門がおもしろい。
なにか言いたげで、人生に疲れたような表情、絵のタッチと服装がどことなく童話の挿絵のような雰囲気さえ感じさせる。北欧の初老の木こりかと思う。デフォルメよりもリアリティを感じさせ、むしろ滑稽さを排除した描写に見えます。
反対に、中曽根のかわいくて、やさしそうで、ユーモラスな表情が嘘くさく見えてしまいます(もちろんそのように見えてしまう僕の心理についても考えなければいけませんが)。
ともかく、僕にとっては、表面的な「滑稽さ」を排除した絵のほうが「滑稽」だと感じるのです。

で、この一件で思い出したのですが、以前にも、これと似たようなことを考えたことがあるのです。

だいぶ昔にみたテレビ番組でこんなことがありました。
番組名は忘れましたが、ダウンタウンが出ていた番組で、2チームに分かれて、タレントを使用した合成写真(合成じゃないのもアリ)を撮影してきて、それを見せ合い面白さを競うというコーナーがありました。
そのなかで桂三枝がブルースリーの扮装をしている写真というのがあり、なかなか面白いものでした。
そして、その写真の表情は「真顔」でした。
「真顔」だったから面白かったのです。
しかし、撮られた桂三枝自身は、「(せっかく面白い顔をしているのに)素になったところを写真に撮るんだよなぁ…」というようなことをボヤいていました。
僕は「何言ってんだコイツ」と思いました。
たぶん、桂三枝は真顔よりも”滑稽な”顔の方が面白いと思っているのでしょう。

また、『ガキの使い』のあるコーナーで、内海好江師匠(僕は一般人だからつけなくていいのに、つい”師匠”ってつけてしまうよね)に面白い扮装をさせて笑いを我慢するという企画がありました。
参考URL:http://oshiete1.goo.ne.jp/qa1417404.html
内海好江師匠が、ただサングラスをかけているだけだったのですが、僕は爆笑した記憶があります。
これもやはり「真顔」でした。
「真顔」だったから面白かったのです。
扮装をプロデュースした松本人志から「真顔で」という指示があったと推測されます。
しかし、好江師匠は最後になって、その真顔を崩しニコッと”滑稽な”顔を作ってみせました。
その時、僕の中での面白さは激減しました。
たぶん、内海好江は真顔よりも”滑稽な”顔のほうが面白いと思っているのでしょう。

これらのテレビ番組と「オカシサの〜」での調査を合わせて考えますと、ある年齢以上の人は”いわゆる滑稽な”顔を滑稽と感じるが、ある年齢以下の人はそうではなくなっているのではないか、と考えます(※年齢で考えてしまうと本質を見誤ることになりますが、ここではとりあえずそうしておきます)。

しかし、そうなると『オカシサの〜』で解答をした現在40歳ぐらいの当時の女子学生たちと、二十代後半の僕の感覚とに差があるとしますと、わずか十数年で人々の滑稽感覚が変わったということになってしまいます。そんなことがあるのでしょうか。
謎は深まるばかりです。
まだまだ考え続けなくてはなりません。

お笑い文献案内/『オカシサの計量心理学的研究』増山英太郎

『オカシサの計量心理学的研究』増山英太郎

オカシサの計量心理学的研究
増山英太郎
1996 風間書房
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主に落語のオチについて、計量心理学的に研究したという珍しい本。
研究方法がSD法とか因子分析などという専門的な方法で、かつ素人のための詳しい解説なども省いてあるので、僕のような算数が苦手な人間が読んでも、分析過程に関してはさっぱり理解できません。
バリマックス回転、累積寄与率、主成分分析、重回帰分析などの専門用語も注釈無しです。

まず、本書第2幕(1幕はイントロダクション)では、落語のオチの分類についての分析がなされます。
そのための土台として、渡辺均という人の落語のオチの12分類を利用します。
一応挙げておきます。
()内は演目の例です。僕は落語に詳しくないのですが、ご存知の方は「ほほぅ」とでも思ってください。

▽視覚的なもの………………………
└しぐさ落ち
 動作でオチをつける

▽聴覚的なもの………………………
┗リズムによる
 └拍子落ち(愛宕山、小言幸兵衛、宿屋の富)
  リズミカルに進んで最後の一言でオチる
 └トタン落ち(うまや火事、三軒長屋、寝床、百年目、三年目)
  最後の一言で話の筋がまとまる
 └はしご落ち
  順を踏んで進んでいくが期待が外れる

┗多義的意味による
 └にわか落ち(三十石、三方一両損)
  シャレによる
 └ぶっつけ落ち(らくだ)
  お互いの言っていることが食い違う
 └見立て落ち(たが屋、悋気の火の玉)
  あるものを別のものに見立てる

┗論理による
 └間抜け落ち(そこつ長屋、長屋の花見、船徳、夢の酒)
  間抜け(論理的矛盾)な一言で終わる
 └考え落ち(短命)
  「なるほど」と思わせるオチ
 └回り落ち(芝浜)
  話が回り回ってもとのところに戻る

┗構成による
 └逆さ落ち
  オチの理屈や内容を先に言っておく
 └仕込み落ち(たちぎれ線香)
  シャレの説明をあらかじめしておく

そしてこれらのオチのもつ特徴をなんやかんやと分析してレーダーチャートとしてまとめます。
さらにそこからの結論として、落語のオチは、まず、視覚的なものと聴覚的なものに分けられる、そして聴覚的なものは、さらに
1)奇抜さによって笑わせるもの
2)論理の矛盾によるもの
3)リズムによるもの
4)全体的な論理のまとまり方(ゲシュタルト性)
の4つに分けられるだろうと結論しています。
フムフム…。

イチャモンをつけるとすれば、土台となっている12分類自体がどの程度正確かという問題もありますし、オチが必ずその演目のメインディッシュであるわけではないでしょう。

その後、「拍子落ち」と「トタン落ち」について詳細に分析するのですが…、
「『拍子落ち』では、オチの持っていきかたがリズミカルであり、『トタン落ち』では最後の一言が話全体に関係があるという傾向が、見られました。」(p.75。下線は私。)
などと、「こういう結果が出ましたよ」的に書いているのですが、ちょっと考えればわかりますが、これは同語反復(トートロジー:tautology)という初歩的な誤りであることがわかります。
まず最初に拍子落ちはリズムによるものと言っているわけですから、それを「リズミカルである…傾向が見られる」というのは「リズミカルな落ちはリズミカルである」と言っているのと同じです。つまり同語反復であり、無内容な結論です。
もうひとつ、
「常識的でうそっぽいのが拍子落ちで、奇抜でリアルなのがトタン落ち」(p.76)
という結果も出ています。まあ、これはやや「ほほぅ」と思うのですが、これでも若干「だからどうした感」が漂っています。

また、桂枝雀のオチ4分類についても検証しています。
結論だけ書くと、この4分類と実際の聞き手の印象とには若干のズレがあるということです。

落語と漫才、CMの比較研究もしていますが、ここでも、
「(演目のリズムについて調べ…)その結果、漫才のサブローシローやウッチャンナンチャンは速く、落語の米朝や志ん朝はゆったりとしていることになり、興味深いところです。」(p.143)
という、思わず「そんなもん、見ればわかるだろ!」とツッコミたくなるような、当たり前すぎることをわざわざ結論づけて「興味深いです」とまで言ってしまっています。まあ、学問ってこういうところありますけどね。

風刺画についてもちょこっと研究しています。
「絵がうす気味悪くなく、絵に意地悪さが込められていて、絵の言わんとしている意味が了解出来るほど、そして自己の退化の正当化への賛同要求がないほど、絵は滑稽である」そうです。「自己の退化の…」がちょっとよくわかりません。
長門、中曽根、レーガン、ラグビー松尾の似顔絵

みなさんはこれらの風刺画(似顔絵)でどれが一番「滑稽」だと思いますか?(クリックで拡大表示されます)
ちなみにそれぞれ、中曽根、レーガン、長門ひろゆき、松尾雄次(ラグビー選手)の似顔絵です。
本書の中の調査では中曽根とレーガンが「滑稽」と判断され、長門、松尾は「滑稽でない」と判断されたようです。
僕は長門ひろゆきが一番「おもろい」と思います。中曽根、レーガンは「ふつう」で、ちっとも面白くないと思います。
僕が順位をつけるとしたら、1、4、3、2です。mixiでマイミクの方にアンケートをとっても同じ順位でした。
本書の順位とかなり差があります。というか逆になっています。
これはいったいどういうことなのでしょうか?
考えなければなりません。

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…さて、そんなわけでこの本は素人からみると、ずいぶんガッチリ本格的にやっているなぁ、という印象なのですが、そのすごそうな研究によって導きだされる結論が拍子抜けするぐらい大したこと無いのです。肩すかしです。
これはちょっと残念でした。高い本なのにね。