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映画『バケモノの子』の感想文

“渋谷”

『バケモノの子』/監督・原作・脚本:細田守/2015.7.11公開
http://www.bakemono-no-ko.jp/

ネタバレアリ
細田作品はバケモノ含めて例の4作品を観ているが、時と夏の2コだけが好きなので、細田作品のことは50%好きだ。
ちなみに今作は、今まで脚本やってた奥寺佐渡子さんが、あくまで脚本協力という形で公式サイトのトップにすら載ってない程度なので、本作は細田監督の脚本力が試された作品という見方もされちゃうんじゃないか。ではその作品はどうだったか。

 まず、映画の冒頭は、黒バックに炎のシルエットで熊徹、猪王山のこと、そして宗師が神様になろうとしてることなんかを、多々良と百秋坊のナレーションでざっと紹介するシーンで始まるんですけど、これそもそも意味ありますかね? 「熊のような……熊徹」などとナレーションで紹介しながらも、炎のシルエットで隠してるんで、紹介してる意味が薄い。しかも、熊徹と猪王山はシルエットが似ててややこしい。熊徹たちバケモノの姿自体がネタバレ禁止的に扱われてるならわかりますけど、チラシとかにバッチリ載ってるわけだし、シルエット化の意味がない。だいだい、このシーンで言われてる程度のことは劇中で簡単に語れるはずなのです。九太に多々良と百秋坊が渋天街のことを説明するシーンをいれても全く不自然じゃないわけですよね。なぜなら主人公の九太と、僕ら観客はバケモノの世界について全く知らないという共通の視点があるわけで。

 その後、九太の家出のシーンになって、けっこうあっさりと渋天街に迷い込むんですけど、この渋天街が、残念ながら全然魅力的に描かれてない。観る前は「バケモノの世界ってどんなのだろう!?」と多少ワクワクがあったのですが、フタを開けてみると、これといって面白いポイントがないことにがっかり。住んでる人たちがただたんに獣の姿ってだけで、それ以外の生活様式は人間と大して変わらないんですよ。全然面白くない。なんとなく昔風で日本ともアジアともヨーロッパともつかないような、特定の街のイメージが無いように作ってはあるんですけど、ただそれだけ。「千と千尋」のあの街のイキイキした描写と比べてみればわかりますよね?全然魅力的じゃないし、そもそも、渋天街での描写はほとんど熊徹の家のあたりだけに終始してる。
 九太が渋天街に入った後、人間界と渋天街をつなぐ通路が、なぜ塞がったのか? 後半で通れるようになっているのはなぜか?そのへんもよくわからない。あの通路は渋天街のタイムテーブルで開いたり閉じたりするのか、それとも九太の精神とシンクロしてるのか、そこも曖昧。

 で、この渋天街では、「宗師」というポジションを決めるために、な・ぜ・か、武術の強さで決めるんですね。その根拠が不明ですよね。なぜ、渋天街ではその長に武術的強さが求められるのか?ぜんぜん答えてない。例えば、渋天街が隣の街と常に争ってるから武術が必要とか、その程度のちょっとした背景の匂わせが無いので、熊徹、猪王山が強さを求めていることに感情移入できない。しかも、熊徹と猪王山以外のキャラは別に強さにこだわらずに普通にのんびり暮らしてるわけですから。なおかつ、ウサギみたいな現宗師は熊徹らの肉体的な強さとは全然別の能力(テレポーテーションなど)を持ったキャラクターであることと、渋天街以外の宗師や一郎彦が念動力を使うこともあって、あの世界における「強さ」の定義がブレてしまっている。
 結局、なぜ、テレポーテーションできるウサギの後継者に、刀を振るったり相撲が強かったりという肉体的な強さが求められるのか? 曖昧なままなので話に入っていけない。
 「宗師」になる条件の一つとして「弟子がいる」ことも劇中で提示されるのですが、これも、ただ弟子が一人でも居ればそれでいいのか?何人いればいいのか?その弟子にどんな能力があればいいのか?等が、アホかというぐらい説明不足。弟子をとって「その弟子が◯◯をできるぐらい育てなければならない」そのために8年もかかった、とか、そういう設定でもよかったのでは?
 たとえば、猪王山と熊徹の互いの一番弟子同士がなんらかの試合をしなければならないライバル関係で、そのことで猪王山と熊徹がヒートアップするみたいなシーンがあってもいいのではないかと思う。「ウチの子が一番」みたいな心境になることで、熊徹もよりいっそう九太に肩入れして絆が深まる…とかあってもいい。父子関係を匂わせるのであればなおさら。

 その熊徹と猪王山が、街なかで偶発的に試合するシーンで、全然応援されない熊徹を見て九太が「こいつもひとりぼっちなんだ」と、ありがたい説明ゼリフを言うんですが、(この作品、悲しいことに説明ゼリフが多い)、毎日のように多々良と百秋坊とつるんでて、どこがひとりぼっち??? ほとんど3人暮らしですよね? 渋天街のみんなは熊徹の存在をよく知っているわけだし、別に毛嫌いされているわけじゃない、豪快で明るく影のないキャラクター(バケモノは闇に食われないという)、左官などの仕事もちゃんとしてて、たまには弟子入り希望の者もいる……この熊徹のどこが「ひとりぼっち」?
 この、「こいつもひとりぼっちなんだ」が、説得力ないために、それを動機としての弟子入りにも説得力がないことに。
 そもそも、九太が強くなりたいモチベーションも説得力不足。家出の際に「強くなって見返してやる!」と、これまた説明ゼリフ的な捨てゼリフを吐きますが、別に肉体的な強さが不足しているために、大人たちのいざこざに巻き込まれているわけじゃないですよね?それだけで8年間もバケモノの世界で、武術的な修行を重ねるモチベーションになるとは思えませんでした。そもそも、家出したのは大人たちに失望して、一人で生きるためだったはず。そのためにやることが剣を振ること?わかりません。じゃあ自活のために家事?それはあっさりとできるようになって(元からできたのか?)、別に観客が成長を感じるポイントにはなっていない。なぜ、人間界に帰りたくならないでいられるのかの心境の部分も説明不足。渋天街が魅力的?いやそんな描写ないし。
 例えば、九太(蓮)が父親(そして自分にも)に足りないと感じていた部分を熊徹に見出して、その憧れによって弟子入りするなどのちょっとした設定すらやろうとしていない。

 熊徹に弟子入りをするシーンで生卵かけご飯を食べるんですが(いわゆるフード理論をクソわかりやすく描いてる)、そもそも九太が、もともと生卵食べれなそうなキャラに見えないんですよね(まあ嫌いなもんは嫌いなんでしょうけど)。髪は元々ボサボサ、きつい目つきで大人にも立派に口答えする、服装もラフ。最初っから結構ワイルドに見るキャラで、そいつが生卵食ったからなんやっちゅうねん、という話です(まあいいけど)。つーか、なんで卵かけご飯なんだよ。もっとバケモノ界ならではの変な食物を出すサービス精神もないのかよ!
 そんなことするなら、九太の初期状態をもっと過保護に育ったおぼっちゃま的なキャラにしておいて、熊徹に弟子入りしてからだんだんと、ワイルドに変な食物(バケモノ界ならではのモノね。REDLINEの六角ミミズのパスタみたいな)をバクバク食ったり、自己主張するようになっていくようにすればいいだけじゃないですか。なんでそんな簡単な設定もしなかったのか?
 そんなこともあって、そもそも、九太が成長してるように見えないという致命的な欠点も。武術は進歩したかもしれませんが、別にもともとひ弱な子供だったという描写もない。熊徹に会った時からすでに、追いかけっこでは熊徹から容易に逃げてしまっている。冒頭のナレーションで熊徹がすごい体力の持ち主みたいに言っちゃってるからなおさら、それから逃げる九太けっこうスポーツすごいじゃんってなっちゃう。
 しかも、熊徹との言い合いでも負けないぐらいの精神力・自己主張力も最初からある。つまり、精神的にも肉体的にも、もともと弱っちいわけではないので、映画を観てて別に「九太変わったなぁ、成長したなぁ」という感慨が無い。

 そんな九太も熊徹の歩法を読めるような成長はします。そこから、九太は熊徹に「相手に合わせろ」という指導?をするようになるのですが、それが熊徹の成長のキーワードになるんだったら、”そのことによって”熊徹は猪王山に勝つべきですよね、流れとして。猪王山の動きに合わせてうまく技をいなすとかしろよと。ですが、結局、熊徹が猪王山に勝つのは九太が応援してくれたことによって、根性を発揮して逆転するという、これまで漫画で100万回観たことはある大ベタ展開。マジか細田。しかもそのシーンは熊徹がダウンして「九」までカウントされた時点で九太が叫びだしたので、なぜかカウントが止まって、ダラダラ喋ってから、その後熊徹復活という、ものすごくズルさを感じてしまうスッキリしない展開。しかも、猪王山はストレートにテンカウントされて負けるので、観客の心にはなんともモヤモヤしたものが残ります。だってボクシングの試合をみててどちらかのテンカウントが途中で止まったら、今の時代、大大大大大大大大大炎上ですよね??それを熊徹がやってるんですよ??あんなあからさまにダメなシーン、みなさん観てて納得したんですか??このへんの演出は明らかに失敗。これを気にせず見れる人は相当ボーッと見てる人だと思います。

 九太が17才になった時の修行シーンは、宗師と猪王山がそれを眺めて宗師が「動きが洗練されとる」(ハイ出た説明セリフ)。猪王山「確かに」(ハァ?)。セリフで説明するんじゃなくて、九太と修行する前にはできなかったことができるようになったシーンを見せることで、観客に自発的に「動きが洗練されたんだな」と”思わせる”のが映画術ですよね?誰もそれについてのアイデア出さなかったのだろうか。

 人間界に戻るくだりも、自分の意思で「自分は十分強くなって、大人になったから人間界に戻って大人を見返したい」ではなくて、偶然、通路に迷い込んで、なんとなくスルスルと人間界に戻ってその後行き来するようになる、という、盛り上がりのない描き方。
 戻った時も、渋谷の街の変化がわかりにくく、よくあるバケモノ界の過ごした時間は人間界では一瞬みたいな設定なのかそうでないのかがわかりにくくてしょうがありません。でも父親に会うのですから、やっぱり普通に8年は経ったのだなということになります。渋谷の街は8年程度じゃあんまり変わらないのか?

 そして、人間界にふと戻ってきて、なーぜーかー、いきなり図書館にいて、なーぜーかー、白鯨を手にしている九太。説明ナシ!!! そして都合よくいきなりヒロインに出会う!!!
 こどもの頃のシーンで「白クジラ」の本が一瞬出てきますが、それとメルヴィルの「白鯨」を手に取ることが繋がってないですよね? なんせ「鯨」の字が読めないんですから。ただの偶然? 「白」って漢字だから手に取った? 超能力?そもそもなんでいきなり図書館に? そんな文学好きな設定描写あっった? そんな本に飢えてた? そんな描写ないよね? そもそも渋天街にも本あるよね?(百秋坊が読んでた)
 「鯨」の字が読めない九太だけど、そもそも渋天街でも漢字は使用されているわけなので、8年の間に少々覚えててもなんの不思議もないですよね?(百秋坊あたりがお節介で教えそうなもの)
 そもそも宗師になるのになんで知恵は必要ないのか?むしろ自治体の長なら武術よりも知恵の方が求められるのではないか、そこも含めて、宗師を格闘で決めるという設定に説得力がないですよね。現宗師がウサギで文科系なキャラだけにいっそう不自然。(この映画を「すばらしい」と思っている人はそのへんをどのように納得してるのですか?)

 そんなわけで、楓というヒロインが、いかにも出さなきゃいけないから出したみたいに出てくるのですが、出すならさ、九太がバケモノの世界でまったく味わえなかった、同世代の人間の女性との触れ合いで、それまでまったく忘れていた、人間的な恋愛ドキドキ(ほのかなものでいい)を取り戻してウワーッてなるシーンを入れればいいじゃないですか。で、その楓が本を読んでスマホを使いこなして、っていう文明社会でちゃんと生きている姿をみて、それへの憧れも含めて、一緒に勉強したいってなって、それが人間界へ通う動機になればいいじゃないですか。

 後半で、九太が渋天街から去ろうとするときに「たくさんの人に世話になって自分は成長した」みたいな説明セリフ(ハイ出た説明セリフ)を多々良と百秋坊に言うんですが、たくさんの人に世話になった描写なんかぜんっぜん無いですよね。熊徹と多々良と百秋坊、あとせいぜい二郎丸、この4人ぐらいとしか絡んでないのに、セリフだけで「たくさんの人に世話になって」?? 4人が「沢山」ならなおさら熊徹は「こいつもひとりぼっち」じゃないですよね!? ハァ??!ダメ映画の特徴ですが、映画として描けてない部分をセリフで言って済ますという愚行を犯してる。あからさまに次元の低い作り。
 熊徹の家の近所に住んでる人はいないの? たとえば母親を想起させるような近所のおばちゃんとの交流とかないの? そういう感情移入のために必要なシーンは無いくせに、熊徹とのマネしあいっこみたいなコメディシーンや、本来不要である冒頭のシルエット説明シーンには尺を消費する、と。

 一郎彦はその見た目から「人間なんだろうな」と思っていたらこれも案の定でしたが、渋天街の住人たちが、あの被り物キャラについて人間だと気づかない疑わない理由も一切説明ナシというガバガバぶり。説明セリフによる強引な説明すら無く完全スルー。イノシシの帽子被ってればバレないという設定なのか。そうか。なんだその子供騙しの理由は。となるとバケモノたちは着ぐるみを着ぐるみとわからないような子ども程度の知能ということなのか。いやそれ九太よりもバカじゃん?(ちゃんとした理由をご存知の方は教えてくださると幸い)

 一郎彦との戦いもわりとグダグダで、一度やられそうになったあと、なぜか一郎彦は追い打ちしないで、のんびり歩いて白鯨の本を拾ったりしてる。緊張感ダウン。九太と楓がわりとのんびり逃げてるのですが、どこからどこへ逃げようとしてるのかも不明。
 一郎彦に吹っ飛ばされて、落下した九太に楓が”駆け寄る”んですけど、この駆け寄り方にもぜんぜん緊迫感がなくて、なんだか九太の落下ポイントの隣にスタンバイしててヨーイアクションでフレームインの大根演技みたいな感じで、アニメーションとして質が低いんですよね。もっと、飛ばされる九太を目で追って叫んでダーーーッて駆け寄って、落ちる九太をキャッチしようとして一緒に倒れてギャッ!みたいなそれぐらいの動感出せなかったんですかね?
 クジラでの攻撃もよく意味わかんないでしょう?小さい頃にクジラの本が家にあった、うん、だから。最近、白鯨を読んでた。で? それと一郎彦関係ないっつーか、一郎彦が九太の精神の一種の投影だとすると、「じゃあ一郎彦自身のアイデンティティは?」ってなりますよね?
 一郎彦が九太を襲う時の丸い白目もなんだかコミカルに見えちゃって、ゲド戦記のクモもそんな感じだったので、トータルでこのあたりのシーンはゲド戦記的におもえちゃって。丸い白目じゃなくて普通に強い真顔で描けばぜんぜん良かったのに、なんで?って感じですよね。なぜ自ら緊張感をそぐかね。
 そもそも、一郎彦の闇ってさ、自分の親(猪王山)が本当の親で無いこと、しかも人間とバケモノの間で、アイデンティティクライシスになるってことなんですけど、この世界ってバケモノと人間の差があんまり無いんで、そんなにクライシスになるかね。比喩で考えちゃうと、自分とは違う人種の親のところへ小さい頃養子に行ってそれに気づいてい無かった人が、同じ条件だけどそれに最初からわかってる人に対して嫉妬するみたいな図式なんですけど、んーーーー、どうなの?
 人間ゆえにバケモノのような能力が得られ無いことへのコンプレックスならわかるけど、一郎彦はむしろ二郎丸より優秀なんでしょ?ただたんに鼻がブタ鼻じゃないからって病んでるの?あー、ブサイクに生まれた比喩みたいなもの?…かと思ったらすごく女子に囲まれて歩いてる描写もあったしそれも違うか、なんかもうメチャクチャ。
 一郎彦曰く「人間のクセに」なんだけど、「クセに…」の先のセリフがなんなのか、ですよね。だけど、繰り返しますけど、バケモノと人間の差がそれほど描かれて無いのでどう考えていいのかわからない。 

 熊徹の言う「胸の剣」という表現は素敵だなと思いました。いいと思います。ですが、最終的に熊徹は「九太には胸の剣がないので、自分がツクモ神になって、胸の剣になり、九太にパイルダーオンして助ける」という流れになります。
 …そっか、九太は胸の剣無いのか……? え??! ないの? 8年の修行の中でそれを育ててたんじゃないの?はあ?
 このツクモ神のくだりのための伏線(みんな大好きフクセンカイシュー)に使うためだけに、最初にセリフとして「胸の剣」って言っただけ?
 となると、「胸の剣」っていうのは、本人の精神力とかそういう意味じゃなくて、外から与えられる保護者の協力みたいなものの象徴だったのか…?だとしたら熊徹が熊徹自身の中に持ってる胸の剣とは何?熊徹は師匠とか居ないんですよね?熊徹は自分の胸の剣はどこで手に入れたの?バケモノ達はみんな胸の剣があるけど人間にはないという設定??「胸の剣」=神のご加護のこと?神道の映画? 熊徹の持ってる胸の剣と九太の胸の剣は定義が違うの? 胸の剣がない奴は最初から無いからある奴がお節介しなきゃダメというメッセージの映画?細田監督は自分の子供の可能性に対してそういう目で見てるの?どゆこと?

 チコについては公開前に映画のチラシなどを見ていた時に「こども、女子の客を惹きつけるために無理やり用意したキャラっぽいな」と危惧していたら…案の定! 1回しか活躍しません(この活躍も「二郎丸が盾になる」みたいな代替が可能なのでチコという存在の必然ではない)。この映画を「超良かった!」と言っていた人ですら「あれはなんだったんだろうと思った」と言っておりました。あーーあ。チコのグッズ売ってるけど、観た人のなかに思い入れがわかないから売れないと思う。

 さてさて、そもそもこの映画、バケモノ界をどう解釈すべきなのか。
 鑑賞する前の下調べの時に思ったのが、バケモノの世界で8年も過ごすというがけっこう大胆な設定だなと思いました。1年とかじゃないんですよね。8年も居る(まあ、これは多分、映画自体を小さな子供から高校生ぐらいを広くターゲットにするために両方の世代を登場させるための製作陣の都合による8年であって、物語の必然としての8年では全然ないだろうと思います)。
 で、その現象をどう解釈していいのか。観る前に考えてました、バケモノ界は「なにの象徴なのか?」。たとえば『かぐや姫の物語』においては、月の世界は「死」や「わずらわしさを忌避する逃避的価値観」の象徴でした。
 では、この映画での、バケモノ界はなんなのか? その場所で9歳から17歳という人生でかなり重要な時期を過ごしてしまうことで、得ることと失うこと。
 いちばんわかりやすいのが、『武術とかスポーツの習い事で鍛えた精神力で、病んでる人の根性を一人叩き直した。ついでに鍛えた集中力でこれから勉強も頑張る』って解釈かな。クソシンプルですけど。クソシンプルゆえにこの映画のやや複雑な設定があんまり意味なく、むしろ逆効果になってる気もする。

 一応、クソ生意気に、「こうだったらよかったんじゃねーか」という案を書いておきます。
 こういうのは書かないと「代案もねーのにディスってんじゃねぇよ!」と言われるし、書いたら書いたで「素人のくせに!」と言われます。もはやどうでもいいです。
 まず、冒頭で、九太の引越し前の様子を下記のように描いておいてはどうでしょう。
 九太はちょっとひ弱で文系のお坊っちゃま的なキャラとしてスタートします。イジメられたりもするので、肉体的な強さに対しての憧れが潜在的にあります(※これを熊徹との修行の潜在的な動機とする)。そんな九太の父親もちょっとひ弱な印象です。優しいですがちょい頼りない感じで描きます。九太の前で情けない部分を見せます。(※熊徹との対比で、九太が熊徹に憧れる動機とする)。両親は読書家で、家に「白鯨」の本も置いてあり、なんらかのきっかけでその本を九太にプレゼントしますが、読む前にバケモノ界に来てしまうので、そのことが記憶の底にひっかかっている状態にします(※後に図書館で白鯨を探す動機とします)。九太のルックスは最初は綺麗なシャツを着て髪もボサボサではないですが、熊徹との修行をする過程でだんだんと変化することでビジュアル的にも九太の変化を観客に伝えることにします。
 九太がいじめられるシーンを入れて、そのときに特徴的なセリフか行為でいじめられることにして、後に熊徹と猪王山が街中でケンカするときに、そのいじめられ方と同じやりかたで熊徹が周りの人に揶揄されるようにします、で、それを目撃することで九太が熊徹にシンパシーを感じる動機とします(説明セリフじゃなくね)。
 渋天街では、百秋坊や宗師、または熊徹の近所の人が「人間界はどんなところだ」「戻らないのか」、さらに「武術だけでなく知恵も磨かなくていいのか」「知恵を磨くには、バケモノ界よりも人間界の方がふさわしい」などと語っておくことで、人間界へ再び憧れ、戻ろうとする動機とします。
 ラストバトルは、まず九太の胸の剣ありきで、でもそれだけだと力不足なので、熊徹も力を貸すことにします、さらに楓も力を貸すことにします、つまり、親と恋人の協力で人生頑張れるよねってことにします。熊徹の剣パイルダーオンで解決って流れじゃなくします。
 とりあえず、これだけやるだけでも多少はいい気がします。細かいこというと、熊徹が入院してるときの点滴のビンとか、もっと巨大で摩訶不思議なデザインにしたりとかしろよ!とか、母親の描写雑だったなぁとか、母親の死を乗り越えた感なかったなぁ、とか、いろいろ思いますよ。
 予告編で宗師めぐりのビジュアル的に綺麗なシーンをチラチラと観せておいて、映画の中では綺麗シーンは本当にその一瞬だけで、予告編のビジュアル面での客寄せ力を強化するためだけの、インセプション商法的な?アレだったなぁとか、いろいろ思います。

 細田作品は東宝の配給にもなったし、ポストジブリとか言われて、しかもちょうどジブリも変化期だったので、ジブリの後釜としての期待を大人たちからされるようになって、まあこれはいいことかもしれませんけど、でもポストジブリということは、映画的にはオールターゲット、全世代の客が呼べる(その方が興行収入が最大化する可能性がある)、作品として作ることが宿命になっちゃって、製作陣は短絡的に全世代ターゲットにするためには、全世代がひっかかるようなモチーフを映画の中に散りばめることだと思ってるフシがあって…、まずは、子供が喜びそうなバケモノやチコ、そして主人公自身を子供にしておこう、と、でも、これだけだと、もうちょっと大人の層に響かないと困るので、高校生にまで成長することにして(バケモノ界で8年居る設定にして、なおかつその間の8年は端折る!楽チン!)、なおかつかわいいヒロインも出して恋愛を匂わせることにしよう、と。あとバトル要素も入れましょう。これだけだと、さらに大人の層に響かないかもしれないので、熊徹や父との絡み、子育て要素を入れることで親世代もなんとなーく観て大丈夫そうな雰囲気を出しておきます。こうすることで、子供だけ映画館に入れて自分はその間に買い物する親をなるべく減らすことにする。もっと大人の世代、つまり、じいさんばあさんはもともとアニメに縁がないので無理に期待はしませんが、孫が見に来れば自動的に一緒に観るかもしれない。これで一応全世代ターゲット”風”の映画ができました、と。
 なんかそんな風に職業監督として作っていったのか。ま、実際にそうであったかが問題じゃなくて(神のみぞ知る)、そう思われる程度の完成度ってことが問題なわけで。

 キャラクターとしては二郎丸がいちばんよかった。こいつが主人公のバージョンが観たい。

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ナダール東京『旅展』の感想文

 自分も参加している写真展『旅展』ですが、自分の作品はクソしょうもないのでさておき、他の皆さんの作品はそれぞれの良さがあり、全体として充実した内容のグループ展なので、感想文をしたたたためておきます。
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『旅展』
*ナダール東京 http://nadar.jp/tokyo/schedule/140218.html
*2014.2.18[火]─3.2[日]〈2.24は休廊〉
 12:00-19:00〈最終日は16:00まで〉
────────
●浅見俊哉さん -呼吸する影-
 フォトグラムにより広島の被爆樹木の影を写し取り、独特の青いシルエットとした作品です。カメラを使わず感光紙と太陽光のみで、数分間露光し写し取ります。ひとつの木にたいして何枚も何度も撮影をしているようです。
 見ている時に「植物の遺影」のようだと思ったのですが、ご本人もそれを意図して黒いブックマットを用いたとのことでした。かといって死のイメージだけを伝えたいわけではなく、まさに今、生きている植物(生き証人)を、長時間の露光で風で揺れ動くさまを含めつつ写し取るわけで「生」のイメージも持っています。それでいてどこか儚げであるという具合に、生と死のふたつの意味合いが重なり合っているところに深みを感じます。
 普通のカメラでパシッと撮るような数百分の一秒だけの関わり合いとは違うので、まるで、もの言わぬ樹木に丁寧なインタビューを繰り返している行為のように思いました。それはまるで質の高いドキュメンタリーを作るディレクターのようです。普通、写真は「撮る」ものですが、この作品は写真を「もらいにいく」という表現の方が合っていると思います。
 同じような写真の9枚組なので、写真の前に立って鑑賞する際に、視点が定まらない感じがします。しかしそれが、植物たちの答えのないザワザワとした語りを聞いているような気分になり味わいがあります。展示の大きさも実際の樹木の大きさを想像させるようで適切だと感じます。
 浅見さんは魚釣りが好きだそうで、作品の発想が魚拓的であるのもなんだか興味深いところです。
 偶然ですが、「木の青い影」は、浅見さんの左隣のNoel Cafeさんの展示とも共鳴していますし、「木の影・黒(=死)」という要素は、浅見さんの右隣のmaco☆さんの展示とも共鳴しているように感じます。展示同士の不思議な関連もおもしろいです。

●カワムカイミドリさん
 インド・ラジャスタンで出会った人の写真3+1点。写真には適切な長さでその人とのエピソードが添えられています。
 どの写真も、光がきれい&構図バッチリで、上手さがすぐわかります。人が写っていると言っても、メインの3点はド正面ポートレートではなく、自然に撮った感じのする写真。構図が3点とも共通していて統一感があります。
 エピソード自体も、とてもちょうどよいエピソードというか、「ちょっとしたことかもしれないけど不思議と記憶に残ること」といった感じで、旅の記憶ってそんな感じだよなぁと思います。文章もあまり飾りすぎず節度があり、写真と合わせてとても上品です。文章含め「旅の写真」としてひとつの理想型というか、このまま書籍にできそうです。
 プリントがとても綺麗なので聞いてみると、紙はハーネミューレ(ざっくり言うと高い紙)を使っているとのこと。写真も文章も品があるので、品のある用紙とマッチしていてとてもすばらしいです。ようするに、すべてに品があります。

●木田幸絵さん -島旅-
 八重山、小豆島、野崎島の写真、それぞれ小さめで6点ずつ。正方形。「旅の写真」として期待される通りの、素直な表現の写真です。
 空の青、海の青。ブルーをキーカラーとして、さわやかな色が気持ちのよい作品です。オリーブの緑色、繊細なグラデーションを見せる雲と海の色もきれいです。文字通りの意味で空気感が良いと言うか「こんな場所行って深呼吸(リフレッシュ)したい」と思わさせられる写真たちです。それこそまさに、人々が“島旅”に期待することで、その期待通りの魅力のお裾分けをしてくれる写真です。
 木田さんは旅行会社で働いているらしいのですが、この木田さんの写真自体が旅へのいざないになっているという具合で、展示の写真にまで職務魂を発揮しているあたり流石だなと思います。

●齋藤美佐子さん
 モンゴル、エジプト、バングラデシュなどの写真です。コンパクトカメラでの撮影でしょうか、写真に日付が入っています。この日付というのも今見ると味わいがあってなかなかよいものです。展示の仕方もL判のものがアルバムの台紙のようなものに貼って展示されており、友達の家に行って旅のアルバムを見せてもらっているような感じでわくわく感があります(ブックマットに入ったものや、額に入った写真もあります)。
 展示の右上の写真が面白い景色だったのでお話を伺ってみると、モンサンミッシェル「から見た」景色だそうで、普通はモンサンミッシェル「を」撮るところを、「モンサンミッシェルからの~」写真にしたあたり、通だなと感じます。写真を通じて視点を借りることができますので、モンサンミッシェルに登った気分にちょっとだけなれて得した気分です。しかも、この写真の場面、つまりモンサンミッシェル周辺の潮が引いた状態の砂浜を歩く人たちというのは、満潮になる時間をちゃんと計算せずに歩いていってしまい「よく遭難する」らしいのです(昔の話でしょうが)。時に人が海に飲まれることもあるのかと思うと、いい景色に見えて実は静かな緊張感のある写真だということがわかります。「死出の旅」に向かった人のように見えますからね。

●純川扉さん -そぼととおの-
 岩手の遠野へおばあちゃんと旅行した時の写真です。これだけ聞くとほのぼの写真になっていそうですが、実際は珍スポレポ的な見せ方になっています。「うねどり」「オシラ様」の写真を見ると、人々の願掛けの布の集積の量感が狂気めいて見えます。状況はよくわかりませんが福子おばあちゃんもオシラ様にあんぐりしております。
 手書きで作製されたブックをめくってみると、なんだか日曜の昼間にやってそうな旅番組を見ているような、ゆるい気持ちになってきます。
 「かっぱごろし」なるラーメンの写真を見ると、河童の頭頂部がスープに浮いており、まさに河童を殺して投入、血でスープが赤く染まったかのようなラーメンです(全体的に赤がキーカラーになっている展示です)。観光資源をなぜ殺そうとしたのでしょうか。
 展示の左下の写真には、ざしきわらしの看板が写されています。双子のようなざしきわらしの女の子2人とその背後に民家へ続く道、というイラストの看板ですが…道に立ちはだかる双子と言えば…キューブリックの『ザ・シャイニング』ですね!(そうなると自動的に、その元ネタとしてのダイアン・アーバスの双子の写真も思い出すことになります)こんなところに映画オマージュを潜ませるとは、岩手県民の不思議なセンスを感じます。
 そしてその双子の右側のコの指差す方、つまり右隣の写真を見ると、これまた双子然とした「コンセイ様」なる、男女のアレのシンボルを表したふたつの木の写真が貼られています。女性シンボルを表しているらしい木には、なんのためか紅白の布が巻かれており、布の上部からは少しだけ木の割れ目のようなものが見えています…そう、「紅白の布・中に女性・チラリ」と言えば、なつかしのスーパージョッキーの熱湯風呂前の生着替えを象徴しているわけです(してません)。
 展示には「かっぱ淵」の写真も飾られています。だいぶ昔になりますが「たけし・さんま超偉人伝説」というテレビ番組で「かっぱ淵の主」として、かっぱ淵に常駐?する阿部老人という方が紹介されていたので知っていました。今回この展示で偶然にも、かっぱ淵、そして今はもう亡くなられたという阿部老人の写真の写真を見れて、とても懐かしく感じました。阿部老人は、とても面白いキャラクターなのでナイトスクープなどでも取材されたようで、言わば地元の有名人。この老人自身が一種の観光資源となっていたはずです。つまり、かっぱ淵のおじいさん自身が現代の妖怪であったし(いい意味で)、そんなじいさんがいたと語り継がれることが、ある種の次世代の民話となるわけで、これはまったく感慨深いことです。
 妖怪、神、幽霊。異世界と交信(シャイニング)したくなるような不思議な遠野の旅です。

●chiakariさん
 プラハとウィーンの写真のようです。写真の仕上がり自体がヨーロッパ風味というか、おしゃれフィルム写真風(なにで撮ったかは知りませんが)の色合いがヨーロッパの雰囲気とマッチしています。影の部分の青かぶりがかっこいいです。
 あまりカチッとしすぎない構図・自然な撮り方で、作品としての一枚一枚の写真というよりも、旅を追体験する一人称視点の動画のような感じがします。
 置いてあるブックの中に、寝台車の車両内の写真がありのその隣に「私は私と旅をする」を英訳したような言葉が書かれています。これはもちろん、映画『おもひでぽろぽろ』を意識したもののはずです。それをさりげなく入れるあたりのセンスもシャレオツです。センスのある人がシャレた街を撮るのですからそりゃシャレた写真になります。
 こういった素敵な街並を見ていると、日本の街がいかに味わいのない場所かがわかります。

●Noel Cafeさん
 北海道で撮った写真3点。
 朝焼けを背にした山の写真、雪のふる夜の運河と遠くの街の灯、雪に落ちる木の影の写真が、それぞれ全体に、むらさき、オレンジ、ブルーの色で仕上げられています。水彩画用紙のような紙にプリントされており、やわらかな雰囲気です。
 自然の光-人口の光-影。寒色-暖色-寒色。右重心-右重心-左重心。2色-1色-1色。というふうにも見ることができ、つまりそれぞれの写真が他の写真にとってのアクセントになっているような、バランスのよい巧みな構成になっており、ちょうどよい3枚をチョイスしたんだなぁと思います。パッと見で一番地味なのは木の影の写真ですが、ついつい長くみてしまうのはこの写真だったりします(この影の写真と右隣の浅見さんの写真が共鳴しています)。
 また、ただ色としてきれいなだけではなく、山の向こうの朝日とこれから訪れる一日、川の先にある街のざわめきと生活、影を落とす樹木の立ち姿、と、「画面の中に写っていないもの」をつい想像したくなるような余地が味わいとなっています。

●maco☆さん
 maco☆さんの写真は2枚だけ。パッと見では、よくわからない組み合わせの写真なので、旅展を見た人の中には、チラリと見て頭の中に?マークが点灯してそのまま…という人もいるかと思いますが、実はなかなか面白い写真なのです。
 ひとつはカラー写真でリフト(スキー場にあるようなもの)に乗って山を登る人々の写真。もうひとつはモノクロで障子に庭の植物の葉っぱのシルエット、という写真です。
 まず、リフトの人々の写真は、この写真自体が「旅で」撮ったものではあるのですが、それだけでなく、この写真自体が「旅」というものの象徴になっているわけです。リフトの下には「ここより宮城県」という簡単な看板がありますが(※おそらく蔵王の写真で、山形との境目)、この、リフト=[交通機関]によって運ばれ、県境を越える=[なんらかの境・国境・海・日常/非日常の境を越境]するという状況がまさに旅の象徴でなくてなんでありましょう。
 そして、ひとつのケーブルにいくつものリフトがくっついている様は、ひとつの枝に葉っぱがいくつもついているイメージと共鳴しています。さらに、リフトに乗る人がいつかリフトから降りるように、葉っぱも時期が来れば枝から離れ落ちて─いわば旅立って─いきます。一見、関係なさそうな2枚の写真は、よく見てみればこのように共通点を持っているわけです。
 また、葉っぱが枯れ落ちるのをひとつの死であると考え、そのイメージをリフトの写真に「逆輸入」すれば、リフトに運ばれ別の地に降り立つ人は、生き、そしてあの世へ帰って行く人間の運命そのもののように見えます。リフトというものが、乗ってる本人には操縦不能なものであるという点も、不可抗力としての運命を表しているようにみえてきます。生から死、死から生を「旅」と捉えるのは、たとえば古い中国の詩の世界で、生きている人を「客人」死んで行く人を「帰人」と表現したように、文学などではよく用いられてきた比喩です(『かぐや姫の物語』もそうです)。
 このように、ただのリフトのスナップ写真も、旅そのものの象徴として、さらに葉っぱの写真と組み合わせることで、旅=人生というふうにイメージの飛躍をさせることができる絶妙な組写真になっていると見ることができるのです。
 しかし! 予想はしていましたが、ご本人に聞いてみると、まっっったくそんなことは考えていないようで、リフトの写真を展示したかったというのがまず先にあり、ついでにモノクロも展示したかったので葉っぱのシルエットの写真を展示したらしいです。しかも、葉っぱの写真は旅先ではなく自宅で撮ったそうで(旅展だっつーの)、撮った時の天気も「カミナリの日だったかな、あれ? 晴れだったかな?」と、よく覚えていないらしく、ともかく、僕の大仰な解釈とは別に作家さんはほぼなんにも考えていないという、そのへんの天然(天才)っぷりも含めてとても面白い作品なのです。
 ちなみに、リフトの写真の左側におじさんが写っていますが、ちょうどリフトの座面が上着で見えないようになっているので、おじさんが浮遊しているように見えるのも面白いです。
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私の感想はこんなところです。
ご興味がありましたらお越し下さい。

感想文『ラファエル前派展』に行ってきた

森アーツセンターギャラリーにて開催の『ラファエル前派展』に行ってきましたので、お気に入りした4作品について小学生的に感想文を書いときます。

*ロセッティ『見よ、我は主のはしためなり(受胎告知)』
 西洋絵画ではよく見る主題「受胎告知」。僕はなぜかわからないですが、受胎告知の絵が好きです。
 受胎告知がどういう場面かというと、聖母マリアの元に大天使ガブリエルが現れて「君、セクロスしてないけど、キリスト妊娠したんでよろしく」と告げるシーンです。
 普通、受胎告知を描く場合は、当たり前ですが、マリアもガブリエルも聖なる感じに描くものなんですが、このロセッティ版は両者もと白く薄い服を纏っているだけで、なんだか病室のように見えます。たいていの場合、マリアには青と赤の衣を着せ、それが一つの「聖なる人です」みたいなことを表すものなのですが、この絵の場合はマリア自身は白い服で、背後に青いカーテンのようなもの、手前にある書見台なのかなんなのか知りませんが、そこに赤い布が掛けてある…、という具合にマリアの身から赤青2色を剥奪することで、つまり聖性を剥奪したような印象にしてますので、そりゃ物議かもすわなぁ、という感じです。
 マリアの頭にはいちおう光輪(後光みたいなの)がありますが、隣の壁に落ちるマリアの影が、ちょうどムンクの『思春期』みたいに、人間的な不安感を表しているようで、光輪の神秘性を相殺ているように感じます。ごく普通の若い女性として突然の出来事に怯えている感じがしてリアルです。神秘的場面ですがリアリズムの絵に見えます。マリアの目線は百合に向かっているように見えますが、意識は百合ではなく、自分の内側に向かっているような目をしています。マリアの毛も不自然に衣服にまとわりついていてなんだか異様な感じです。画面全体もマリアと天使で一杯一杯で余裕がなく緊張感があり、鳩も「なんでこの位置に描いたんだろう」というような中途半端かつ絶妙な場所に描かれていて、おもしろいです。マリアのポーズもいいしね。
 ただし、ロセッティの他の絵(女性の絵)は全然興味が湧かない。

*ミレイ『安息の谷間「疲れし者の安らぎの場」』
 手前には墓場、二人の修道女、一人は墓穴をスコップで掘り、もう一人は座ってこちら(鑑賞者)を見ている、遠景は夕暮れにシルエットと化した樹木と教会、という絵です。
 絵の中の人物が鑑賞者を見てる絵はなんとなく珍しい感じですよね。修道女の一人はなんでこっちを見てるのかなと思ったんですが…、ああ、そうか!と、俺を見てるのか、俺の墓か!俺もいつか死ぬもんね!知ってた!知ってたし!こうしてる間にも誰かが俺の墓穴を掘ってやがる。確かにそうだ。という具合にドキッとしたので印象的でした。怖い怖い。

*ミレイ『オフィーリア』
 最強に有名な絵です。別に感動とかそういう感じはしませんでしたが、美しい絵ではあります。そもそも元の話(ハムレット)を知らないので、感情移入ができなかったな(勉強してから行け)。
 解説パネルに「モデルに風呂に浮かんでもらった」みたいなことが描いてありましたが、それ言う必要あるかね?なんか映画でタレントが声優やっててストーリーに没入するのをタレントの顔が浮かぶことで邪魔してるみたいな効果がでちゃう気がする。「あーモデルさん大変だったろうなぁ」なんてのは一般の鑑賞者にとっては無駄な知識にしか思えないから。
 水に浮かぶオフィーリアと、それを静かに見おろすように咲いている白い花がひとつの対比になっているように見えます。オフィーリアの身の回りに浮かぶ(オフィーリアが摘んだ?)花は赤青黄色と色とりどり(狂気の象徴?)ですが、岸に咲いている花は白というのも対比効果でしょうか。
 オフィーリアと呼応するような倒木、それにとまって場面を静観している小鳥もじんわりとした味わい、虚しさがあると思います。

*ウィリアム・ダイス『ペグウェル・ベイ、ケント州─1858年10月5日の思い出』
 旅した時の風景を描いたそうですが、ちょっと奇妙な感じのする絵です。
 描写の素晴らしさと、色の彩度の低さが独特の効果を出しているように思えます。この絵の「意味」と言われるとよくわかりませんが、印象に残る絵です。
 家族と旅行した時の思い出を描いていますが、楽しそうには見えません。静かでちょっと退屈そうです。案外家族旅行ってそんな感じだったりもすると思います。空には彗星があります。小さく描かれている画家自身は彗星を見ているように見えますが、家族は貝を拾っていて彗星に興味がないようです。空の世界を観る画家と、地上を見る現実的な家族? 両者の見つめているもの、価値観、生活感のズレが実は表現されてる、みたいな解釈をしてもいいのかな?などと思ったり。


 美術館に行く楽しみのひとつは今回の僕にとってのロセッティの「受胎告知」みたいに、ノーマークだった絵、ノーマークだった画家の作品、に心惹かれる体験をすること。逆に楽しみにしてた絵を前にしても意外と感動しなかったりしてガッカリすることも。つまり、現物を見てみないとわからんってことです。印刷物じゃダメ。

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『ラファエル前派展』
・六本木ヒルズ 森アーツセンターギャラリー
・2014/1/25〜4/6
http://prb2014.jp/
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小野啓さん写真展「NEW TEXT」をみた話

 東京の赤々舎なるギャラリーでやっていた、小野啓さんの高校生の写真展をチラリと拝見させていただいた。人に誘われて見に行ったので、それまでに小野さんのこともよく知らず、写真もほとんど見たことがなかった。小野さんは高校生をずっ〜と撮りつづけているらしい。つまり、ただの高校生写真ではなくてなにやらでかいプロジェクトであるらしいのだが、そのへんのことはよくわからないので、ただ写真を観たシンプルな感想を書いてみる。
 まず、パッと見てすぐ思ったのは、自分ではこうは撮らないような不自然さのある写真だなと思った。被写体のポーズや表情が、ほんとうに非演出で撮っているのか、演出や指示があるなら、どの程度小野さんの指示でどの程度高校生自身による発信なのかはわからないが(意識的にせよ無意識的にせよ)、不自然に横を向いていたり、髪の毛で目が隠れていたり、なんだか微妙にちょっとカッコつけたりしている写真なのだ。そして、そこに思春期なりの自意識が感じられると思った。つまり、青い光が出てる。どうやらモデルの高校生は小野さんが声をかけて撮るわけではなく、撮られたい人が自ら応募してモデルとなるようなので、その時点である程度自意識がフツフツとしている人が集まるのだろう。自分はこういった自意識とかカッコつけ精神を出すこと、出ている写真は、ダサイと思いがちなので小野さんの写真も最初はどうなのかなと思った。
 昔「真剣十代しゃべり場」という番組があったけど、あれも自ら応募して集まった参加者なので、議論の中に自意識がまじって論理がズレてそれが大人の視聴者からはさんざんコケにされるということがあるが、なんとなくそれを思い出した。しかし、よく考えてみると近年の「中二病」とか「かまってちゃん」とかいう言葉がよく使われる現状をみてみますに、自意識というものがより強く意識される時代になったということなのかもしれない。
 で、そんな現代の中に生きて、まさに自意識の華が開花したばかりの、思春期の若者をその自意識がちゃんと感じられるような撮り方で撮って残して公開するという行為は、とても今っぽいと言えるのかなぁと思いました。
 そんなわけで、ある意味でこれらの写真って「黒歴史」を撮ってしまっている写真なのではないか、と思いました。つまりかっこつけて撮られた高校生が大人になって自分の子供にこの写真を見せたら「おとーさん(おかーさん)なにカッコつけて写ってんの?ダセー、ギャハハ!」みたいになるんじゃないかと。
 つまり、普通はこのテの高校生が写ってる写真はなにも考えずに見ると「甘酸っぱい青春写真」と捉えがちだけど(先入観)、実のところは、「“高二病”の黒歴史を晒して公開処刑」している写真かもしれない!と思ったときとても興味深く見ることができた。あるいは「青歴史」だ。ちなみに、ギャラリーに貼ってあった紙に、これらの写真について「素の表情」と書いてあったけど、普通に見て素とは言いがたいだろう、と(中にはそういうのもあるけどトータルで見ると素を撮ろうとしたものには見えないだろう普通。)。なのに、「素の表情」と書いてしまう当たり、この文を書いた人(誰か知らないが)が「高校生のポートレートと言えば素の表情」という先入観で見てしまっているのじゃないか。(※素っぽい写真もあるし、そうじゃないのもある。クローズアップもあるし、フルショットもある、一人一人撮り方が違って色々。一言でくくれない。撮られた高校生たち一人一人が皆違うから)
 ギャラリーにお邪魔した時にちょうと小野さんがなんかネット番組みたいなのを兼ねたギャラリートークみたいなのでいらしてたのですが、その当の小野さんご本人は、自意識が出ているような人ではなく、逆に自意識がひっこんでいて控えめで大人しそうな、古本屋の副店長みたいな人だったので、撮影者と表現物との間の微妙なネジれが感じられてそこがまたおもしろいな!と思いました。勉強になりました。

◎小野啓さん http://www.onokei.jp/
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