スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

映画『バケモノの子』の感想文

“渋谷”

『バケモノの子』/監督・原作・脚本:細田守/2015.7.11公開
http://www.bakemono-no-ko.jp/

ネタバレアリ
細田作品はバケモノ含めて例の4作品を観ているが、時と夏の2コだけが好きなので、細田作品のことは50%好きだ。
ちなみに今作は、今まで脚本やってた奥寺佐渡子さんが、あくまで脚本協力という形で公式サイトのトップにすら載ってない程度なので、本作は細田監督の脚本力が試された作品という見方もされちゃうんじゃないか。ではその作品はどうだったか。

 まず、映画の冒頭は、黒バックに炎のシルエットで熊徹、猪王山のこと、そして宗師が神様になろうとしてることなんかを、多々良と百秋坊のナレーションでざっと紹介するシーンで始まるんですけど、これそもそも意味ありますかね? 「熊のような……熊徹」などとナレーションで紹介しながらも、炎のシルエットで隠してるんで、紹介してる意味が薄い。しかも、熊徹と猪王山はシルエットが似ててややこしい。熊徹たちバケモノの姿自体がネタバレ禁止的に扱われてるならわかりますけど、チラシとかにバッチリ載ってるわけだし、シルエット化の意味がない。だいだい、このシーンで言われてる程度のことは劇中で簡単に語れるはずなのです。九太に多々良と百秋坊が渋天街のことを説明するシーンをいれても全く不自然じゃないわけですよね。なぜなら主人公の九太と、僕ら観客はバケモノの世界について全く知らないという共通の視点があるわけで。

 その後、九太の家出のシーンになって、けっこうあっさりと渋天街に迷い込むんですけど、この渋天街が、残念ながら全然魅力的に描かれてない。観る前は「バケモノの世界ってどんなのだろう!?」と多少ワクワクがあったのですが、フタを開けてみると、これといって面白いポイントがないことにがっかり。住んでる人たちがただたんに獣の姿ってだけで、それ以外の生活様式は人間と大して変わらないんですよ。全然面白くない。なんとなく昔風で日本ともアジアともヨーロッパともつかないような、特定の街のイメージが無いように作ってはあるんですけど、ただそれだけ。「千と千尋」のあの街のイキイキした描写と比べてみればわかりますよね?全然魅力的じゃないし、そもそも、渋天街での描写はほとんど熊徹の家のあたりだけに終始してる。
 九太が渋天街に入った後、人間界と渋天街をつなぐ通路が、なぜ塞がったのか? 後半で通れるようになっているのはなぜか?そのへんもよくわからない。あの通路は渋天街のタイムテーブルで開いたり閉じたりするのか、それとも九太の精神とシンクロしてるのか、そこも曖昧。

 で、この渋天街では、「宗師」というポジションを決めるために、な・ぜ・か、武術の強さで決めるんですね。その根拠が不明ですよね。なぜ、渋天街ではその長に武術的強さが求められるのか?ぜんぜん答えてない。例えば、渋天街が隣の街と常に争ってるから武術が必要とか、その程度のちょっとした背景の匂わせが無いので、熊徹、猪王山が強さを求めていることに感情移入できない。しかも、熊徹と猪王山以外のキャラは別に強さにこだわらずに普通にのんびり暮らしてるわけですから。なおかつ、ウサギみたいな現宗師は熊徹らの肉体的な強さとは全然別の能力(テレポーテーションなど)を持ったキャラクターであることと、渋天街以外の宗師や一郎彦が念動力を使うこともあって、あの世界における「強さ」の定義がブレてしまっている。
 結局、なぜ、テレポーテーションできるウサギの後継者に、刀を振るったり相撲が強かったりという肉体的な強さが求められるのか? 曖昧なままなので話に入っていけない。
 「宗師」になる条件の一つとして「弟子がいる」ことも劇中で提示されるのですが、これも、ただ弟子が一人でも居ればそれでいいのか?何人いればいいのか?その弟子にどんな能力があればいいのか?等が、アホかというぐらい説明不足。弟子をとって「その弟子が◯◯をできるぐらい育てなければならない」そのために8年もかかった、とか、そういう設定でもよかったのでは?
 たとえば、猪王山と熊徹の互いの一番弟子同士がなんらかの試合をしなければならないライバル関係で、そのことで猪王山と熊徹がヒートアップするみたいなシーンがあってもいいのではないかと思う。「ウチの子が一番」みたいな心境になることで、熊徹もよりいっそう九太に肩入れして絆が深まる…とかあってもいい。父子関係を匂わせるのであればなおさら。

 その熊徹と猪王山が、街なかで偶発的に試合するシーンで、全然応援されない熊徹を見て九太が「こいつもひとりぼっちなんだ」と、ありがたい説明ゼリフを言うんですが、(この作品、悲しいことに説明ゼリフが多い)、毎日のように多々良と百秋坊とつるんでて、どこがひとりぼっち??? ほとんど3人暮らしですよね? 渋天街のみんなは熊徹の存在をよく知っているわけだし、別に毛嫌いされているわけじゃない、豪快で明るく影のないキャラクター(バケモノは闇に食われないという)、左官などの仕事もちゃんとしてて、たまには弟子入り希望の者もいる……この熊徹のどこが「ひとりぼっち」?
 この、「こいつもひとりぼっちなんだ」が、説得力ないために、それを動機としての弟子入りにも説得力がないことに。
 そもそも、九太が強くなりたいモチベーションも説得力不足。家出の際に「強くなって見返してやる!」と、これまた説明ゼリフ的な捨てゼリフを吐きますが、別に肉体的な強さが不足しているために、大人たちのいざこざに巻き込まれているわけじゃないですよね?それだけで8年間もバケモノの世界で、武術的な修行を重ねるモチベーションになるとは思えませんでした。そもそも、家出したのは大人たちに失望して、一人で生きるためだったはず。そのためにやることが剣を振ること?わかりません。じゃあ自活のために家事?それはあっさりとできるようになって(元からできたのか?)、別に観客が成長を感じるポイントにはなっていない。なぜ、人間界に帰りたくならないでいられるのかの心境の部分も説明不足。渋天街が魅力的?いやそんな描写ないし。
 例えば、九太(蓮)が父親(そして自分にも)に足りないと感じていた部分を熊徹に見出して、その憧れによって弟子入りするなどのちょっとした設定すらやろうとしていない。

 熊徹に弟子入りをするシーンで生卵かけご飯を食べるんですが(いわゆるフード理論をクソわかりやすく描いてる)、そもそも九太が、もともと生卵食べれなそうなキャラに見えないんですよね(まあ嫌いなもんは嫌いなんでしょうけど)。髪は元々ボサボサ、きつい目つきで大人にも立派に口答えする、服装もラフ。最初っから結構ワイルドに見るキャラで、そいつが生卵食ったからなんやっちゅうねん、という話です(まあいいけど)。つーか、なんで卵かけご飯なんだよ。もっとバケモノ界ならではの変な食物を出すサービス精神もないのかよ!
 そんなことするなら、九太の初期状態をもっと過保護に育ったおぼっちゃま的なキャラにしておいて、熊徹に弟子入りしてからだんだんと、ワイルドに変な食物(バケモノ界ならではのモノね。REDLINEの六角ミミズのパスタみたいな)をバクバク食ったり、自己主張するようになっていくようにすればいいだけじゃないですか。なんでそんな簡単な設定もしなかったのか?
 そんなこともあって、そもそも、九太が成長してるように見えないという致命的な欠点も。武術は進歩したかもしれませんが、別にもともとひ弱な子供だったという描写もない。熊徹に会った時からすでに、追いかけっこでは熊徹から容易に逃げてしまっている。冒頭のナレーションで熊徹がすごい体力の持ち主みたいに言っちゃってるからなおさら、それから逃げる九太けっこうスポーツすごいじゃんってなっちゃう。
 しかも、熊徹との言い合いでも負けないぐらいの精神力・自己主張力も最初からある。つまり、精神的にも肉体的にも、もともと弱っちいわけではないので、映画を観てて別に「九太変わったなぁ、成長したなぁ」という感慨が無い。

 そんな九太も熊徹の歩法を読めるような成長はします。そこから、九太は熊徹に「相手に合わせろ」という指導?をするようになるのですが、それが熊徹の成長のキーワードになるんだったら、”そのことによって”熊徹は猪王山に勝つべきですよね、流れとして。猪王山の動きに合わせてうまく技をいなすとかしろよと。ですが、結局、熊徹が猪王山に勝つのは九太が応援してくれたことによって、根性を発揮して逆転するという、これまで漫画で100万回観たことはある大ベタ展開。マジか細田。しかもそのシーンは熊徹がダウンして「九」までカウントされた時点で九太が叫びだしたので、なぜかカウントが止まって、ダラダラ喋ってから、その後熊徹復活という、ものすごくズルさを感じてしまうスッキリしない展開。しかも、猪王山はストレートにテンカウントされて負けるので、観客の心にはなんともモヤモヤしたものが残ります。だってボクシングの試合をみててどちらかのテンカウントが途中で止まったら、今の時代、大大大大大大大大大炎上ですよね??それを熊徹がやってるんですよ??あんなあからさまにダメなシーン、みなさん観てて納得したんですか??このへんの演出は明らかに失敗。これを気にせず見れる人は相当ボーッと見てる人だと思います。

 九太が17才になった時の修行シーンは、宗師と猪王山がそれを眺めて宗師が「動きが洗練されとる」(ハイ出た説明セリフ)。猪王山「確かに」(ハァ?)。セリフで説明するんじゃなくて、九太と修行する前にはできなかったことができるようになったシーンを見せることで、観客に自発的に「動きが洗練されたんだな」と”思わせる”のが映画術ですよね?誰もそれについてのアイデア出さなかったのだろうか。

 人間界に戻るくだりも、自分の意思で「自分は十分強くなって、大人になったから人間界に戻って大人を見返したい」ではなくて、偶然、通路に迷い込んで、なんとなくスルスルと人間界に戻ってその後行き来するようになる、という、盛り上がりのない描き方。
 戻った時も、渋谷の街の変化がわかりにくく、よくあるバケモノ界の過ごした時間は人間界では一瞬みたいな設定なのかそうでないのかがわかりにくくてしょうがありません。でも父親に会うのですから、やっぱり普通に8年は経ったのだなということになります。渋谷の街は8年程度じゃあんまり変わらないのか?

 そして、人間界にふと戻ってきて、なーぜーかー、いきなり図書館にいて、なーぜーかー、白鯨を手にしている九太。説明ナシ!!! そして都合よくいきなりヒロインに出会う!!!
 こどもの頃のシーンで「白クジラ」の本が一瞬出てきますが、それとメルヴィルの「白鯨」を手に取ることが繋がってないですよね? なんせ「鯨」の字が読めないんですから。ただの偶然? 「白」って漢字だから手に取った? 超能力?そもそもなんでいきなり図書館に? そんな文学好きな設定描写あっった? そんな本に飢えてた? そんな描写ないよね? そもそも渋天街にも本あるよね?(百秋坊が読んでた)
 「鯨」の字が読めない九太だけど、そもそも渋天街でも漢字は使用されているわけなので、8年の間に少々覚えててもなんの不思議もないですよね?(百秋坊あたりがお節介で教えそうなもの)
 そもそも宗師になるのになんで知恵は必要ないのか?むしろ自治体の長なら武術よりも知恵の方が求められるのではないか、そこも含めて、宗師を格闘で決めるという設定に説得力がないですよね。現宗師がウサギで文科系なキャラだけにいっそう不自然。(この映画を「すばらしい」と思っている人はそのへんをどのように納得してるのですか?)

 そんなわけで、楓というヒロインが、いかにも出さなきゃいけないから出したみたいに出てくるのですが、出すならさ、九太がバケモノの世界でまったく味わえなかった、同世代の人間の女性との触れ合いで、それまでまったく忘れていた、人間的な恋愛ドキドキ(ほのかなものでいい)を取り戻してウワーッてなるシーンを入れればいいじゃないですか。で、その楓が本を読んでスマホを使いこなして、っていう文明社会でちゃんと生きている姿をみて、それへの憧れも含めて、一緒に勉強したいってなって、それが人間界へ通う動機になればいいじゃないですか。

 後半で、九太が渋天街から去ろうとするときに「たくさんの人に世話になって自分は成長した」みたいな説明セリフ(ハイ出た説明セリフ)を多々良と百秋坊に言うんですが、たくさんの人に世話になった描写なんかぜんっぜん無いですよね。熊徹と多々良と百秋坊、あとせいぜい二郎丸、この4人ぐらいとしか絡んでないのに、セリフだけで「たくさんの人に世話になって」?? 4人が「沢山」ならなおさら熊徹は「こいつもひとりぼっち」じゃないですよね!? ハァ??!ダメ映画の特徴ですが、映画として描けてない部分をセリフで言って済ますという愚行を犯してる。あからさまに次元の低い作り。
 熊徹の家の近所に住んでる人はいないの? たとえば母親を想起させるような近所のおばちゃんとの交流とかないの? そういう感情移入のために必要なシーンは無いくせに、熊徹とのマネしあいっこみたいなコメディシーンや、本来不要である冒頭のシルエット説明シーンには尺を消費する、と。

 一郎彦はその見た目から「人間なんだろうな」と思っていたらこれも案の定でしたが、渋天街の住人たちが、あの被り物キャラについて人間だと気づかない疑わない理由も一切説明ナシというガバガバぶり。説明セリフによる強引な説明すら無く完全スルー。イノシシの帽子被ってればバレないという設定なのか。そうか。なんだその子供騙しの理由は。となるとバケモノたちは着ぐるみを着ぐるみとわからないような子ども程度の知能ということなのか。いやそれ九太よりもバカじゃん?(ちゃんとした理由をご存知の方は教えてくださると幸い)

 一郎彦との戦いもわりとグダグダで、一度やられそうになったあと、なぜか一郎彦は追い打ちしないで、のんびり歩いて白鯨の本を拾ったりしてる。緊張感ダウン。九太と楓がわりとのんびり逃げてるのですが、どこからどこへ逃げようとしてるのかも不明。
 一郎彦に吹っ飛ばされて、落下した九太に楓が”駆け寄る”んですけど、この駆け寄り方にもぜんぜん緊迫感がなくて、なんだか九太の落下ポイントの隣にスタンバイしててヨーイアクションでフレームインの大根演技みたいな感じで、アニメーションとして質が低いんですよね。もっと、飛ばされる九太を目で追って叫んでダーーーッて駆け寄って、落ちる九太をキャッチしようとして一緒に倒れてギャッ!みたいなそれぐらいの動感出せなかったんですかね?
 クジラでの攻撃もよく意味わかんないでしょう?小さい頃にクジラの本が家にあった、うん、だから。最近、白鯨を読んでた。で? それと一郎彦関係ないっつーか、一郎彦が九太の精神の一種の投影だとすると、「じゃあ一郎彦自身のアイデンティティは?」ってなりますよね?
 一郎彦が九太を襲う時の丸い白目もなんだかコミカルに見えちゃって、ゲド戦記のクモもそんな感じだったので、トータルでこのあたりのシーンはゲド戦記的におもえちゃって。丸い白目じゃなくて普通に強い真顔で描けばぜんぜん良かったのに、なんで?って感じですよね。なぜ自ら緊張感をそぐかね。
 そもそも、一郎彦の闇ってさ、自分の親(猪王山)が本当の親で無いこと、しかも人間とバケモノの間で、アイデンティティクライシスになるってことなんですけど、この世界ってバケモノと人間の差があんまり無いんで、そんなにクライシスになるかね。比喩で考えちゃうと、自分とは違う人種の親のところへ小さい頃養子に行ってそれに気づいてい無かった人が、同じ条件だけどそれに最初からわかってる人に対して嫉妬するみたいな図式なんですけど、んーーーー、どうなの?
 人間ゆえにバケモノのような能力が得られ無いことへのコンプレックスならわかるけど、一郎彦はむしろ二郎丸より優秀なんでしょ?ただたんに鼻がブタ鼻じゃないからって病んでるの?あー、ブサイクに生まれた比喩みたいなもの?…かと思ったらすごく女子に囲まれて歩いてる描写もあったしそれも違うか、なんかもうメチャクチャ。
 一郎彦曰く「人間のクセに」なんだけど、「クセに…」の先のセリフがなんなのか、ですよね。だけど、繰り返しますけど、バケモノと人間の差がそれほど描かれて無いのでどう考えていいのかわからない。 

 熊徹の言う「胸の剣」という表現は素敵だなと思いました。いいと思います。ですが、最終的に熊徹は「九太には胸の剣がないので、自分がツクモ神になって、胸の剣になり、九太にパイルダーオンして助ける」という流れになります。
 …そっか、九太は胸の剣無いのか……? え??! ないの? 8年の修行の中でそれを育ててたんじゃないの?はあ?
 このツクモ神のくだりのための伏線(みんな大好きフクセンカイシュー)に使うためだけに、最初にセリフとして「胸の剣」って言っただけ?
 となると、「胸の剣」っていうのは、本人の精神力とかそういう意味じゃなくて、外から与えられる保護者の協力みたいなものの象徴だったのか…?だとしたら熊徹が熊徹自身の中に持ってる胸の剣とは何?熊徹は師匠とか居ないんですよね?熊徹は自分の胸の剣はどこで手に入れたの?バケモノ達はみんな胸の剣があるけど人間にはないという設定??「胸の剣」=神のご加護のこと?神道の映画? 熊徹の持ってる胸の剣と九太の胸の剣は定義が違うの? 胸の剣がない奴は最初から無いからある奴がお節介しなきゃダメというメッセージの映画?細田監督は自分の子供の可能性に対してそういう目で見てるの?どゆこと?

 チコについては公開前に映画のチラシなどを見ていた時に「こども、女子の客を惹きつけるために無理やり用意したキャラっぽいな」と危惧していたら…案の定! 1回しか活躍しません(この活躍も「二郎丸が盾になる」みたいな代替が可能なのでチコという存在の必然ではない)。この映画を「超良かった!」と言っていた人ですら「あれはなんだったんだろうと思った」と言っておりました。あーーあ。チコのグッズ売ってるけど、観た人のなかに思い入れがわかないから売れないと思う。

 さてさて、そもそもこの映画、バケモノ界をどう解釈すべきなのか。
 鑑賞する前の下調べの時に思ったのが、バケモノの世界で8年も過ごすというがけっこう大胆な設定だなと思いました。1年とかじゃないんですよね。8年も居る(まあ、これは多分、映画自体を小さな子供から高校生ぐらいを広くターゲットにするために両方の世代を登場させるための製作陣の都合による8年であって、物語の必然としての8年では全然ないだろうと思います)。
 で、その現象をどう解釈していいのか。観る前に考えてました、バケモノ界は「なにの象徴なのか?」。たとえば『かぐや姫の物語』においては、月の世界は「死」や「わずらわしさを忌避する逃避的価値観」の象徴でした。
 では、この映画での、バケモノ界はなんなのか? その場所で9歳から17歳という人生でかなり重要な時期を過ごしてしまうことで、得ることと失うこと。
 いちばんわかりやすいのが、『武術とかスポーツの習い事で鍛えた精神力で、病んでる人の根性を一人叩き直した。ついでに鍛えた集中力でこれから勉強も頑張る』って解釈かな。クソシンプルですけど。クソシンプルゆえにこの映画のやや複雑な設定があんまり意味なく、むしろ逆効果になってる気もする。

 一応、クソ生意気に、「こうだったらよかったんじゃねーか」という案を書いておきます。
 こういうのは書かないと「代案もねーのにディスってんじゃねぇよ!」と言われるし、書いたら書いたで「素人のくせに!」と言われます。もはやどうでもいいです。
 まず、冒頭で、九太の引越し前の様子を下記のように描いておいてはどうでしょう。
 九太はちょっとひ弱で文系のお坊っちゃま的なキャラとしてスタートします。イジメられたりもするので、肉体的な強さに対しての憧れが潜在的にあります(※これを熊徹との修行の潜在的な動機とする)。そんな九太の父親もちょっとひ弱な印象です。優しいですがちょい頼りない感じで描きます。九太の前で情けない部分を見せます。(※熊徹との対比で、九太が熊徹に憧れる動機とする)。両親は読書家で、家に「白鯨」の本も置いてあり、なんらかのきっかけでその本を九太にプレゼントしますが、読む前にバケモノ界に来てしまうので、そのことが記憶の底にひっかかっている状態にします(※後に図書館で白鯨を探す動機とします)。九太のルックスは最初は綺麗なシャツを着て髪もボサボサではないですが、熊徹との修行をする過程でだんだんと変化することでビジュアル的にも九太の変化を観客に伝えることにします。
 九太がいじめられるシーンを入れて、そのときに特徴的なセリフか行為でいじめられることにして、後に熊徹と猪王山が街中でケンカするときに、そのいじめられ方と同じやりかたで熊徹が周りの人に揶揄されるようにします、で、それを目撃することで九太が熊徹にシンパシーを感じる動機とします(説明セリフじゃなくね)。
 渋天街では、百秋坊や宗師、または熊徹の近所の人が「人間界はどんなところだ」「戻らないのか」、さらに「武術だけでなく知恵も磨かなくていいのか」「知恵を磨くには、バケモノ界よりも人間界の方がふさわしい」などと語っておくことで、人間界へ再び憧れ、戻ろうとする動機とします。
 ラストバトルは、まず九太の胸の剣ありきで、でもそれだけだと力不足なので、熊徹も力を貸すことにします、さらに楓も力を貸すことにします、つまり、親と恋人の協力で人生頑張れるよねってことにします。熊徹の剣パイルダーオンで解決って流れじゃなくします。
 とりあえず、これだけやるだけでも多少はいい気がします。細かいこというと、熊徹が入院してるときの点滴のビンとか、もっと巨大で摩訶不思議なデザインにしたりとかしろよ!とか、母親の描写雑だったなぁとか、母親の死を乗り越えた感なかったなぁ、とか、いろいろ思いますよ。
 予告編で宗師めぐりのビジュアル的に綺麗なシーンをチラチラと観せておいて、映画の中では綺麗シーンは本当にその一瞬だけで、予告編のビジュアル面での客寄せ力を強化するためだけの、インセプション商法的な?アレだったなぁとか、いろいろ思います。

 細田作品は東宝の配給にもなったし、ポストジブリとか言われて、しかもちょうどジブリも変化期だったので、ジブリの後釜としての期待を大人たちからされるようになって、まあこれはいいことかもしれませんけど、でもポストジブリということは、映画的にはオールターゲット、全世代の客が呼べる(その方が興行収入が最大化する可能性がある)、作品として作ることが宿命になっちゃって、製作陣は短絡的に全世代ターゲットにするためには、全世代がひっかかるようなモチーフを映画の中に散りばめることだと思ってるフシがあって…、まずは、子供が喜びそうなバケモノやチコ、そして主人公自身を子供にしておこう、と、でも、これだけだと、もうちょっと大人の層に響かないと困るので、高校生にまで成長することにして(バケモノ界で8年居る設定にして、なおかつその間の8年は端折る!楽チン!)、なおかつかわいいヒロインも出して恋愛を匂わせることにしよう、と。あとバトル要素も入れましょう。これだけだと、さらに大人の層に響かないかもしれないので、熊徹や父との絡み、子育て要素を入れることで親世代もなんとなーく観て大丈夫そうな雰囲気を出しておきます。こうすることで、子供だけ映画館に入れて自分はその間に買い物する親をなるべく減らすことにする。もっと大人の世代、つまり、じいさんばあさんはもともとアニメに縁がないので無理に期待はしませんが、孫が見に来れば自動的に一緒に観るかもしれない。これで一応全世代ターゲット”風”の映画ができました、と。
 なんかそんな風に職業監督として作っていったのか。ま、実際にそうであったかが問題じゃなくて(神のみぞ知る)、そう思われる程度の完成度ってことが問題なわけで。

 キャラクターとしては二郎丸がいちばんよかった。こいつが主人公のバージョンが観たい。

comment

name
e-mail
URL
title
comment
pass  *
secret? (管理者にだけ表示)
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。